1ー3.焼けトタンに首を切られた友

 
次は、小櫃政男さんの体験である。小櫃氏は当時14歳。たまたま会社が休みだった(当時、職人さんは毎月1日と15日が休日だったという)ので、友人と浅草に映画を見に行っていて地震に遭遇。その後、まずひょうたん池から浅草観音の境内へと避難し、やがてそこも危険になったので、吾妻橋から本所へと渡った。そして帰宅の途中、警察官から被服廠跡地へ行けと強くいわれ、やむを得ず被服廠跡へ避難することになった。

◎手記

「焼けトタンに首を切られた友  小櫃政男(本所区梅森町) 
 私は当時本所区柳島梅森町に住み、14歳で精工社に入社しておりました。
 その日は休日で朝のうち雨でしたが、午前10時頃晴れてきた。友人と一緒に午前11時頃家を出、浅草で映画を見ていたところ、お昼頃不意に体が持ち上げられ、左右に激しく傾いたと同時に、頭上から絶叫に似た声が起こって、3階から2、3人の客が落ちて来て、館内は大混乱におちいった。客は総立ちになり、出口へと殺到した。
 私は友人と人にもまれながらようやく館外に出たが、前は寿司屋横丁で余りの激しい震動で立っていることも出来ず、寿司屋の軒先の柱にしがみついたが、その柱も大きく左右に揺れて、今にも店の建物が倒れかかってくるような恐怖におそわれた。地面に手をついている者もいた。映画館の看板が随所で落下する音があたりに聞こえた。揺れ方が僅かに衰えたので、柱から手を離し寿司屋横丁を出た。角に建っていた天麩羅屋が倒れ、一人の男が太い材木の下から顔を出し眼球が飛び出て口から下を誑らしており、初めて目にする死者の顔に驚き、どうしてよいかわからなかった。
 ひょうたん池へ逃げろという人の叫び声で、池の方へ走り出したが足が思うように進まず、ようやく池に来た時、前方の12階の上方の部分が裂けると右方に倒れて、私達のところへ血だらけの人々が歩いてきた。そのうちに人々と共に観音様の境内に逃げたが、早くも花屋敷の方より火災が起き近づいたので、私は母のいる家へ帰るため吾妻橋を渡り本所の方へと逃げて来たが、途中アゴひもをかけ抜剣した警察官に、被服廠跡へ行けと強く言われたので、午後3時頃被服廠跡へ入りました。 
 付近の人々は続々と家財を持ち込んで避難してきた。その人達は家財を周囲に立てて、その中にゴザを敷いて寄り集まっていた。避難者の数は時を追うにしたがって激増し、やがて敷地内は人々と家財で身動き出来ぬほどでした。
 町並が徐々に焼きはらわれて、被服廠跡にも日が迫り、火の粉が一斉に空地に降りかかり始めると、一瞬の間に家財や荷物が音を立てて燃え出した。たちまち空地は大混乱に陥り、炎を避けようと走るが人々の体にぶつかり合い、倒れた者の上に多くの人々がのしかかる。炎は地をはうように走り、人々は衣服を焼かれ倒れる人もいた。その中を右に左に走っていたが、足にふれるのがあるので見ると、焼死体を踏んでおり、体がむれているのか、腹部が破れ内蔵がほとばしっていた。そのうちに烈風が起こり、大旋風となり、初めのうちはトタンやフトンが舞い上がっていたが、見る間に家財や人も巻き上げられました。当時運送屋が使っていた馬力が馬ごと荷物を積んだまま空高く巻き上げられ、空中でおしつ位の大きさになり木の葉のようにキリキリ舞いして落ちて来た。馬にも火が付きあばれ出し、その車の下になって死んだ人も大勢いた。旋風と竜巻の恐ろしさにただただ驚きました。私も友人と右と左に逃げ回っていましたが、突然焼けトタンがすさまじい勢いで飛んできた。と同時に、身近で変な音がした。友人が倒れたのだ。そして起こそうとしたが、意外にも友人の頭部が失われているのに 気がついた。焼けトタンは、友人の首を鋭利な刃物で切ってしまったようでした。首のない友人の手は、私の手を堅くつつんだまま離さない。私は必死の思いで友人の指を開き、ようやく離れ逃げだしているうちに、荷物の上に乗りましたが、とたんに中に落ち、そこには5人ほどの人がおり、中の女の人が可哀相だと言って、魔除けと言い迷信でしょうが、赤い腰巻きを私の頭に被せました。その時にその人々の荷物が焼け、私は頭部、顔、左手、左足、腰部に大火傷をしました。なおも逃げているうちに、気が遠くなり何もわからなくなりました。
 気が付いたときは軍隊の担架に乗せられており、亀戸第一小学校に運ばれていました。当時の衛生状態と暑さのために、火傷のところからうじが湧き、それは苦しい思いでしたが、命を取りとめ生存しました」

◎インタビュー3.小櫃政男氏(1990年9月3日)

Q:震災のときには、小櫃さんは14才だったと。その頃お住まいはどちらでしたか?
A:本所です、いまの墨田区。専売局がありますね、あそこの前の横丁です。柳島梅森町ってんですよ。わたし精工舎にいまして、前の年に父が43才で子供を5人残してなくなりましてね、それでわたしは3男坊なんですけども、上2人がどうも良くないんで、卒業式に学校で免状式がありますね、免状式の袴をはいて免状を持ったまま精工舎に連れて行かれちゃったんですよ。それで3年間年季奉公、精工舎でね。でも、会社から給料をもらうんじゃあなく、親方からね。それで、ちょうど1年半後なんですよ、グラッと来たのは。3月から9月ですから、1年半ですね。
Q:その日は休日だったんですね。1日15日が休みだということで。
A:それで、晦日に給料の勘定でしょう。で、友だちと2人で。だいたい小学校時分の友だちでして、それと2人で。お金があったからね。そのうち嵐みたいになっちゃった、9時前でしたけど。で、10時くらいになって、カッとお天気になったんで、それで小使いを持ってますんで、浅草へ映画を見に行こうって映画に行きました。いまはないですが、日本館といってね、いまの映画館の通りから表へ出る手前にちょうど寿司屋横丁ってんですが、その右側ですよ。いまは婦人の何かを売ってますわね。そこに日本館という三階建てがあって、そこへ入ったんです。フ−ト・ギブソンという二挺ピストルのあれがあってね、それがドアを開けてピストルを向けたときにグラグラと来たんですよ。西部劇で、カウボ−イですね。それでも、まだ表に出ないんですよ、子供心にまだ映画をやるもんだと思ってまして。それで、三階から人が3人くらい落っこちたんです、相当な揺れですよ。それで映画が途中でとまって、表へ出なさいっていうわけです。ちょうど寿司屋横丁というところがあって、その寿司屋の柱につかまったら、柱が倒れるんです。ミシミシです、恐かったですねえ。    
Q:そうすると、一度まずドカンと大きいのがきますね、それで映像が全部消えて真っ暗になって、そして上から人が落ちて来たりするわけですが、観客は大勢いたんですか?
A:一杯でした。
Q:パニック状態で、みんな外へワ−と逃げだすということはありましたか?
A:ええ、そうでした。あっちもこっちも。わたしは横丁にいて寿司屋の柱につかまってましたから、そしたら今度は危ないからまたなかへ入りなさいってわけです。それで、なかに入ると映画館では出てくれ出てくれでしょう。で、やむを得ず日本館から表へ出たところへ、角に天婦羅屋があったんですが、ちょうど常盤座の手前の角ですけど、そこで親父と思わしき人が、梁に首を挟まれて舌出して目玉出して死んでるんです。目の前で。さあ、びっくりしちゃったねえ。
Q:相当な揺れだったのですね。
A:もう何てんですかね。立って歩くなんてとんでもない。それで今度、人がいうには、いまはちょうど馬券売場になってますけど、元は瓢箪池だったんです。いまも交番はそのまんまで瓢箪型の池になっていたんだけど、それでそこに行ったほうが安全だろうっていうんで行ってたんですよ。すると、映画俳優の高尾光子という女の子がいたんですが、その人やなんかがそばにいたのですけど、そのときにいまでいう龍雲閣、12階ですね、あれが上が崩れてたでしょう。ああおっかないなあと思ったら、あっちでもこっちでも銃声がポンポンして、象やライオンや虎を殺しているんですよ、花屋敷の。そうこうしているうちに、大きな鳥がみんな飛んで来るんですよ、鳥は離したんですね。銃声はドンドンやるし、で、そのうち煙りが後ろのほうからポコポコとでてきたんですよ。それで危ないから、観音様なら守ってくれるだろうから観音様へ行こうって、大勢でゾロゾロ観音様に入ったんです。けど、熱くていられたもんじゃあない。そのうち、観音様の後ろが危ないからっていうんで、出て来たんです。
Q:危ないというのは誰が言ったんですか?
A:燃えるということですね。一般の人がね。
Q:それは、何時頃ですか? 観音様にいらしたのは。
A:わたし?観音様に入ったのは逃げて行ったんですね。なんでもないところはみんなが行きますから、行こうっていって行ったんですけど。けど、今度は危ないから出ましょうって、自分の家に帰りなさいっていうんですね。それで、今度は吾妻橋を渡ろうと思ったら、もう吾妻橋がだいぶいかれてる。元は、電車は電車、人間は人間が歩くところの橋と別れていたんだけど、その人間のほうの橋が壊れていたんです。恐る恐るながら通ったんですけど、すると今度は本所です。吾妻橋の、いまでいうビアホ−ルの前に来たときに、大勢の巡査が抜剣して、被服廠へ行け被服廠へ行けって言ってるんです。それを命令したのは、本所警察の署長かだれかだったんですけど。で、巡査が10人くらいで抜剣している。それが、わたしたち子供の頃は知らなかったんですけど、精工舎で働いているときによくヤスリを使いますよね、それの目立て屋がちょうど被服廠の前にあって、福島ヤスリって。そこへ行ったことがあるんで、だいたい道を知ってるんですよ。で、ゾロゾロと行ったんですね。さあ、今度は被服廠の前に来たら全然入れてくれないんです。あのへんの近所の人が畳とか戸障子を全部立てて、陣地 をこしらえちゃった。それが何十軒とあるでしょう。で、わたしが入ろうとすると、お前たちが来るところじゃあないから帰れって。それで、後ろからは入れ入れと抜剣していますからね。それで巡査に言ったんですよ、とにか くこれじゃあ恐いからって。でも、何でも入れって言うんですね。それで、ようすをみて友だちと2人でひょいっとなかに入ったら、なかはからっぽなんです。それで、そうですねかれこれ一時間くらいなかにいたでしょうかね。そしたら、あっちからもこっちからも火が出て来て、ボンボンボンボン。恐かったですね。それがね、友だちと手をつないで歩いていますでしょう、そのうちに火力がうんと強くなっちゃったんですよ。それで竜巻になっちゃった。あなたがたはご存じないかもわかんないけど、昔の馬力ね、馬が荷物を引くんですけど、その馬が荷物を引いたままなかで暴れるんです、熱いから。それが車ごと、宙にずっと高く上がって行っちゃう。上るときはいいかわかんないけど、落ちるときはバーンとものすごいですよ。その下になってずいぶん死んでますよ。よけるなんてことはできませんから。それで、みんなあっちこっちへ逃げているわけですよ。風向きによ って、あっちからくればこっちこっちからくればあっちって。そのうちに、手が重くなっちゃったんですよ。なんだと思ったら、友達の首が前に落っこってるんです、焼けトタンで。さあ、今度は離そうとっても離れないしね、こっちも危ないからやっとのことで離して逃げたんですよ。そしたら、逃げているうちにポコッと穴ぼこに入っちゃたんです。その穴ぼこってのは、家族5、6人で陣地を構えているでしょう、フトンをかぶって。そのなかへ落っこちちゃったんです。すると、そこの年配者のおばさんが、あらこの子かわいそう、魔除けをやるっていって、自分のはいている真っ赤な腰まきを取って、これは魔除けだと言って頭からかぶせられたんですよ。かぶせられたら、今度はフトンに火がついたんです。で、さあ逃げようって這い出すときに、左の手と頭をやられたんです。いまでも跡がある。全身火傷ですよ。こっちは何でもないんですけど。それで、あっちこっち逃げているうちに、あとはぜんぜんわからなくなっちゃたんです。あとで気が付いてから兵隊さんに聞いたんだけど、倒れていますね、衿首をつかんで横っつらを張りとばすんだそうですよ。そうすると、いくらか動いていたんで 生きているから、タンカへ乗せて亀戸の第一小学校へ連れてこられたんです。そのときわたしがちょうど精工舎のところへ来たときに、どこかのおばあちゃんが「あら、この子」と言ってそばへ来たんですよ。それで声をかけられたんで、ハッと目が醒めた。それまでは知らなかったんです。それで気が付いて、そのまま第一小学校へ行ったんです。第一小学校には2〜3千人いたんですよ。被服廠ばかりでなくて、いろんなところから連れて来られたんですね。そのうち、ここがむずがゆくなるんで、軍医がいましたから軍医に聞いたら、お前は助かるって言うんですよ。何でかったら、火傷にウジがわくようだと助かるって言うんです。いまだにずっと跡がありますけど、左っぱたはけつっぺたから全部やられてます。それでも、何にもしてはくれない。してくれるどころじゃあない、何千人という人が廊下に寝かされて倒れているんですから、何もできないでしょう。軍医や何かは1人か2人くらいしかいないんですよ。だから、何もしてくれないんです。それで、軍医がお前は助かる、うちがあるならうちへ帰れって言うんです。うちなんかあるわけないじゃないですか。燃えちゃったこと知ってんのにね 。それで、誰か知っている者がいるかって言うから、小松川におじさんがいるって言うと、そこまで行けって言うんですよ。「このまま行くんですか」って言ったら 「そうだ、お前は大丈夫だから」って言うんです。それで、電車の通りをヨタヨタヨタヨタ歩いて行ったんですよ。それで、おじさんのところへ行ったら、おじさんは在郷軍人で外へ出てるんで、留守なんですよ。だけど、わたしの母親というのは、子供が大勢のために墨田電話局でアルバイトをやってたんですね。そこでグラッときたんで、そこの交換手を五人くらい連れていっしょにおじさんのところへ来たんです。それで、わたしが玄関を開けたときわたしの顔を見て、みんな何者だと思ったでしょう。ボロボロで、服とか髪の毛も眉毛も焼けてないんですから。それで、「あら政男かい」なんてことになって、やっと手当てをしてくれたんですよ。それでそこにいたんですけど、夜になりますとみんなふつうの住まいのところへは寝ないんです。なぜかというと、朝鮮人が暴れて来るというんでね。それで、お前は火傷をして大変なんだからって、交換手や何かと小松川の土手へ行って蚊帳をはって、そのなかへ寝かせてくれたんです。そ うすると、表でドヤドヤと歩く音がするんですよ。何だと思ったら、朝鮮人を検査しているんですね。歩いている人に「これ読め」ってんで、朝日とかバットとか敷島とかのタバコを出して。それで、日本人でもずいぶんやられたと思うんですけど、バットってことを朝鮮人の人は言えないんですね、ハットとかなっちゃう。そうすると、「コノヤロウ」と言ってダ−ッと切るんですよ、日本刀ですよ。切り付けてそのまま行っちゃうんです、みんな自警団ですね。わたしなんか、土手にいてその現場を見ていたんですから。恐いしね、寝ているどころじゃあないですよ。包帯なんかでグルグル巻きにして、目と鼻だけ出して見てたんですけど、恐ろしかったですねえ、そのときは。
Q:このあいだもずいぶん朝日新聞なんかにも、実態を調べようとかいろいろあるみたいですけど、その朝鮮人の話というのは何時頃、一番最初に聞きましたか?
A:朝鮮人の話は、伯父さんの家に行ったときですね。9月の4日頃じゃあないでしょうかねえ。それで、表は日本刀を持ったのがしょっちゅう歩いているんですよ、自警団の。それでわたしなんかは包帯巻きですから、「お前は何だ」なんてやられましれね。それで、小櫃っていったら、すぐ朝鮮人だろうなんて言われました。伯父さんやなんかがよくかばってくれたんです。ちょうど小松川の土手へ行く手前の ところですけど、いまは変わってしまってないですよ。けど、その時分は朝鮮人のことをよく聞きましたよ。
Q:地震のときに火がでたのは何時頃ですか?だいたい時間的にいって。
A:何時頃でしょうかね。ええと、2時にならないですよ。花屋敷のところから行ったんですから、2時にならないです。
Q:いまのお話だと、浅草はかなり揺れがひどかったですね。帰るときに、家はかなりつぶれてましたか?
A:そうそう。
Q:地割れはどうですか?
A:地割れはなかったと思いましたね。危なくてやっと本所へ来て、やれやれと。本所の吾妻橋から、柳島の梅森町までは相当あるんですよ。
Q:橋は大丈夫だったんですか?
A:曲がっちゃったんで、渡れたことは渡れたんですけど、こんなになってました。コンクリ−トや何かでないんで、壊れてなく渡れるんですよ。で、やっと本所に入った瞬間に抜剣していて。あれは切れないと思ったら、切れるんですよ。抜剣して顎ひもをかけて、被服廠へ行け被服廠へ行けって言ってるんで、恐かったですよ、子供心に。自分の家は焼けてないと思いましたから、早く家に帰りたいんですけど。
Q:逆に、本所のほうから橋を渡って浅草に行った人もずいぶんいたわけですね。そのとき群衆がすれ違うことはなかったですか?スンナリ帰れましたか?
A:何かゴチャゴチャしてましたけど、そういうときは右往左往でしょう。で、友達が早く行こう早く行こうって言うんで、一緒に行ったんですよ。
Q:その友達は精工舎で一緒に働いていた友達ですか?
A:いえ、違います。わたしは柳島小学校だったんですけど、生徒があまり多くなったんで、向こうに柳本小学校というのをこしらえたんです。で、そこへ5年のときに移ったんですが、そこで仲良くしていました、めんこなんかして。それで、精工舎でもなんでもなくてウチにいたんですがね、で、偶然ウチへ来て遊びに行こうっていうんで、日本館へ行ったんです。わたしはよほど悪運が強いんだといわれますよ。5回くらい死にそこなってますから。
Q:映画館で映画を見ているときにグラグラ揺れて、映画館の人が出てくれ出てくれって言うんですか?それとも、みんないっせいに出るんですか?
A:なかの人は言いっこないですよ、まだ映画をやっているんですから。上から3人くらい落ちて来て、アレ−ってみんな大きな声を出して総立ちになってから、表へ出ろっていうわけですよ。だれ言うとなしにね。ところが、映画はまだやってるから、チラチラ見てますよ。そのうちにとめてしまったんです。
Q:じゃあ、急に停電したわけじゃあないんですね。
A:しないです、映画はやっていたんですから、グラグラといってるときも。だから、わたしなどこうやって見てました。みんな見てたんですよ。
Q:それでは、みんな外へ逃げだそうとして、大混乱というんではないですね。
A:そうですね、向こうへ出た人は、入り口へ出た人は大混乱です。わたしたちは横丁のほうからで、すぐそばでしたからね。寿司屋に飛び込んだんですよ。それで、飛び込んだら、柱につかまっているでしょう、柱が寝ちゃうんですよ、ミシミシってなって。そのうちに、危ないからどけって言われたんですがね。それで、ちょっと行ったら天婦羅屋の親父が、目の玉飛び出して死んでいるんです。初めてでしょう、恐かったですねえ。
Q:日本館は壊れなかったんですか?
A:壊れないです。ところがね、その当時にキネマ倶楽部というのが瓢箪池の前にあったんですけど、それはこんなになっていまにも倒れそうになってました。それで、向こうからは髪の毛をバラバラにした女の人がレンガの赤い粉をつけてくる。すごいですよその粉は、血だと思ったんですから、みんな。それがドロドロってこっちへ来るでしょう。で、危ないから向こうへ行け向こうへ行けって言うんですよ。 すると、向こうではボンボンと銃で動物を殺しているんですよ。それで、瓢箪池のところから、みんな観音様へ危ないからと行ったところが、12階のほうから煙が出て来たんですよ。それをわたしは火事じゃないと思ってたんですよ。それで、観音様の本堂に行って、しばらくしたら回りが熱くて。火事じゃあないんですよ、鉄の扉で熱いんです。
Q:じゃあ、観音さまの本堂のなかに入っていた人も多かったわけですね。本堂でなく境内へ逃げた人も多かったと思いますけど。それでは、本堂が熱かったら境内へ逃げ出すわけにはいかなかったんですか?本堂から出て、もう一度境内へ。
A:いえ、やっぱり自分のうちへいっちゃった。
Q:自分の家が恋しくなってしまうんでしょうね。
A:うちが焼けてないと思うでしょう。うちには妹なんかもいるしね。
Q:そこへ帰っていたら助かったんでしょうね。
A:出たのがいいか残ったのがいいかはわからないんですよ、いまになってみると。ですから、被服廠へ行かなくても死んじゃったかもわかんないしね。
Q:この梅森町には結局帰れないで、途中で被服廠へ行ったわけですね。
A:ええ、吾妻橋を渡ってすぐ右にいっちゃたんですよ。
Q:それで、第一小学校に運ばれてそのまま小松川にいらしたわけですが、小松川にはどのくらいいらしたんですか?
A:そうねえ、2カ月くらいでしょうかねえ。母親のお爺さんがいましてね、葉山のほうで事業に失敗して、こういうときじゃなきゃあ商売にならないって言って、こっちへ来たんですよ。わたしは包帯を巻いているんだよ、でも、玄米パンを売れっていうんで、お爺さんと一緒に行ったんです。イヤだっていうのに精工舎の前に行くんですよ。わたしは精工舎の人はみんな顔を知ってんじゃないのさあ。それで、いまは大きなビルになってますけど、元の貯蓄銀行の前だった。そこは売れたんですよ、小松川からあそこまで行った。
Q:その玄米パンは作ったんですか?
A:お爺さんがどっかから持って来るんですよ。わたしはそういうことは知らないけどね。
Q:一日どれくらい売れるもんですか?
A:さあ、いくらかだか忘れちゃったですね。
Q:その後、ケガが治ってからは精工舎に戻ったんですか?
A:はい、治ってからね。それで、お爺さんという人がわたしを利用したわけですよ。どうしてかというと、池ノ端七間町に松阪屋の別館があるんですけど、そこの裏に都築製作所っていう自転車のギヤ−とかクランクとか作ってたところがあったんですけど、そこへわたしを売り込んだんですよ、後で気がついたんですけどね。そこで、わたしは夜の夜中でもやらせられるでしょう。で、たまらないから辞めたいって。でも、1年くらいいたですかね。東京っ子だから、表回りをさせられるんですよ。配達。だいたい黒門町が自転車の問屋ですからね、あそこへ行かされるんですよ。ところが、わたしは自転車に乗れない。それで、夜の夜中にサイドカ−をつけた自転車で練習したですよ。やらないと、水をぶっかけられるんですから。こっちは子供ですよ。それでやっと乗れるようになったら、相当重いギヤ−を5つか6つ、もとの巣鴨刑務所の前の自転車の問屋へ納めろってんですね。ところが、向こうは坂でしょう、行くまでが。それは恐かったですよ、ダ−と戻っちゃうんですから。それで、よそのうちにがちゃんとぶつかって脅かされたり、子供だから可愛いなんていわれたり。それで、辞めたいっ て言ったら「お前はまだ年期が来ていない」っていわれて。お爺さんがわたしを売っちゃってたらしいんですね。それで、伯父さんや何かが何だかんだっていろんな話をして、それで今度は日本橋の人形町のこっちの泉町というところに電話局がありますけど、そこの織物問屋のなかに自転車屋があって、そこへ売り込まれたんですよ、3年間。それで、来てももらえないでしょう。そこの本部は、深川の富下町のバタ屋がいるところのたもとの宇田川っていう自転車屋なんですが、その支店が日本橋にあるんですよ。そうすると、若い者みんな日本橋で働いているでしょう、3度の食事をわたしが日本橋まで自転車で運んだんですよ。それは辛かったですよ。それで、夜寝るのがだいたい11時過ぎでしょう。若い店員や何かは2階でグースカ寝てるでしょう。わたしは下だもんですから何時に起こされるかわからないんですよ。
Q:お母さんや妹さんは、小松川からどちらへ?
A:富山へ行きました。うちの母親の知り合いの姉さんってのが、富山で芸者屋をやってたんですけど、そこへ妹と2人で。
Q:じゃあ、みなさんはもともといらしたところへはもどらなかったわけですね、震災後は。
A:そうそう。梅森町自体はすぐになくなったんですよ。俗に40軒長屋っていうんです、貧乏長屋。こっちに20軒、こっちに20軒。で、お前はどこだ、40軒っていうと、ああ何だというところです。それで、梅森町の向こう側が太平町なんですよ、専売局のところがずっと川だったんですよ、栗原橋まで。そこに万年橋っていう橋があって、それを越えたところの左側が梅森町で、右側が太平町なんですよ。ところが、太平町1丁目には月謝を取らない小学校があって、貧乏小学校っていってみんながバカにしたんです。わたしたちは月謝を取られたですがね。
Q:話はもどりますが、亀戸の第一小学校で寝てるときは回りはすごいケガ人だったといいますけど、そういう人はバタバタ死んで行くんですか?
A:バタバタ死んで行きますよ。あそこで死んだのが2〜3千人いるんじゃあないかなあ。とにかく廊下に寝かせっぱなしですからね。わたしたちはちょっとひどいっていうんで教室か何かに入ったんですけど、教室のなかもいっぱいでしょう。
Q:水とか食料はどうでしたか?
A:何もないです。
Q:それでは、ずいぶん長いこと食べないままいたんですか?
A:だから、二日くらいいたかな。薬も何もない、手当てもしてくれないもん。火膨れができるでしょう、その火膨れが切れてダラダラとウミが出るでしょう、ウジがその黴菌を舐めてくれたと。だからお前は助かるって軍医が言うんです。あとは何してくれるのっても、何もしてくれない。お前は小松川に知り合いがあるんなら帰れって。帰れったってねえ。着物は絣の着物ですけど、焼けてちゃんちゃんこみたいになってるし、それで帰れって言うんですから。
Q:被服廠のところで、真ん中には人があまりいなかったということですけど、それはどうしてでしょう?
A:回りを囲んじゃってるんです。入り口付近にグルリと陣地を作ってるんですね。
Q:真ん中に行けばいいのに、最初から真ん中はあいていたのですか?
A:結局、何かあって燃えたときにみんな中へ中へ行くでしょう。回りが燃えちゃうんです。昔はほとんど借家でしょう、畳や建具なんかでみんな陣地にしちゃうんです。それで、わたしが入ろうとしたら、お前入っちゃあいかんでしょう、ここは俺のところだって。それで、後ろからは抜剣して入れ入れと言うでしょう。だから、押されながらやっと入ったんだけど、中はからっぽじゃあないか。まあ、馬力や 何かはありましたけどね。
Q:逃げるときはそのなかを右往左往したんですね。なかにはおまわりさんはいないんですか?
A:いない。われわれが後で考える想像以上ですよ。本所警察か何かのおまわりさんが行け行けって言ってるでしょう、でもなかの始末は何もしてくれないですよ。それだけの余裕はないでしょう。まさかそんなになるとはみんな思いませんからねえ。だから、あの付近の人がみんな陣地をこしらえちゃった。ひょっと見たって、どこから入っていいのかわかんない、人垣でねえ。それが、火がついて来るでしょう、ついたとたんにみんな真ん中の者は、いいように焦げちゃうんですよ。だから、ふつうの火と違うですよ。わたしが見た馬力が上がったっていうのを、そんなバカなと言うんですけど、バカなって言ってもあったんだからしょうがないですよ。上がっていくときはいいけども、落っこちるときはガターンでしょう。それに潰された人もいたんだから。それで、わたしがまだ火傷をする前に逃げてたわけですよ。風がこっちへくればあっち、あっちへくればこっちって、荷物のかげに隠れながら休んじゃあ行くんですよ。そしたらあるとき、駆け出していったらつるっと滑ったんですよ、転んで仰向けになって、ひょっと見たら女の人が大腸がぐっと出ているんです。焼けてるんですね、焼けてる上 に乗っかったんで、バッと切れちゃったんですね。生焼けですけどね。
Q:火が出たときに、観音様では、火の危険というのを感じましたか?
A:観音様に入ったときは、まだ回りは火じゃあないですよ。まだ、それほど火の危険は感じない。そのうちに、もとの国際劇場のほうから出てきたんです。だから年寄にいわせると、お前は向こうにいたからそっちで見ただろうけど、オレはこっちのほうで見たよっていいますよ。だから、どこがどうだというとこじゃあないんです、わからないんですよ。被服廠でも何でも、あっちでもこっちでもですよ。年 寄の話を聞くと、両国のほうから出たっていう人と、本所のほうの印刷会社から出たっていう人もあるし、わからないからね。それで、火が出はじめたらみんななかでワーワー騒ぐわけよ、だれだって命は惜しいですしねえ。だから、みんな荷物に火がついたでしょう、荷物に火が付きはじめたらもうバタバタですよ。
Q:映画館から最初に逃げたときは、当初地震で火が危ないという感じはなかったですか?
A:ないない。火なんてことは全然考えなかった。ただ、人が落ちっこっちたのが恐かったね。天婦羅屋の親父さんが死んでたからねえ。
Q:どうも、長いあいだありがとうございました。

1ー4.焦熱地獄

 4番目に登場するのは、平山昌次さん。平山氏は当時22歳。勤め先の用事をすませて帰社する途中で、地震に遭遇した。すぐに会社に戻るが、火災が拡大してきたため、社員15人で被服廠跡地へ避難した。

◎手記

「焦熱地獄     平山 昌次(本所区若宮町)
私は当時、紅商伊勢半本店に勤めていた。当日は朝から大雨が降っていた。
 浅草の銀行に行き用が済んで帰る途中、勤め先のあと100メートル位の所で俄かに地鳴りが起こり、揺れが始まり、やがて電柱は75度位の角度で左右に動き、立っていられず地面に伏した。付近の家屋は見る見るうちに倒壊し始め、瓦や積み上げた薪炭などが落下してくるので道端の下水溝に退避した。地震も少し静まったので店に駆け付けたところ右往左往の大混乱であった。
 火災は二之橋、吉田町法恩橋通り、浅草蔵前方面の3ケ所だったが、このままでは危険であるので避難することにし何も持たずに家を出た。亀戸、蔵前、本郷方面は火災のため通行出来ない。思案していると誰かが言うことなしに被服廠跡へ行けと声がし、私を含めた会社の人15名がそこへ入った。この広場は相当な広さで、私達はその中央寄りに集まった。広場の南方向に当時、安田保善商業が建築中で、その建物および足場に津波を恐れた群衆が登り避難していた。広場は、荷車等に家財を満載し運び込む避難者で身動き出来ない状態になった。
 突然、物凄い竜巻と突風が吹き荒れ始め、家財や人体が中天高く吹き上げられ、人々の泣き叫ぶ声、助けを求める人、経文を唱える人などで大混乱となった。私は傍にあった布団を頭に被り地に伏した瞬間、煙が一面に立ち上がり見る見るうちに、荷物に火が付き、一面火の海と化した。私も立ち上がり、方向も分からず人と共にかけだし、物につまづいて転倒し多くの人に踏みつけられた。人々は行手に安田邸の塀があり、その上には硝子片が植付けられており、乗越えられず全員が焼死した。
 私は倒れるとともに耳、頭、手足に火傷を負い、呼吸が困難になり思わず寝返りをうち、うつ伏せとなった時、急に呼吸が楽になり同時に冷たい風が吹き付けた。私は生気を取り戻し、地面を5メートル位這ってゆくと水溜まりがあった。夢中でその中に飛び込み、炎が吹き付けるたびに水をかぶり火災を防いでいた。
 どの位たったのか。気が付いたときは広場の到るところ死人の山、泣き叫び救いを求める人、経文を唱える人、水をくれと叫ぶ人で騒然としていた。死者の大半は、衣類は焼け黒焦げで性別さえわからずまた妊婦が産気づき、子供が生まれかかり、腹部に裂傷を負い子供が出かかっている人もいた。衣類などはそのままに、窒息して死んだ人も多数いた。被服廠跡と電車通りの境に巾1メートル、長さ100メートル位の下水溝には、折り重なって寿司詰めの状態で死んでいた。建築現場の足場に登っていた人達も一瞬の突風に吹き落とされ全員焼死した。若宮町に在った女学校の生徒数十名が避難していたが、全員焼死し、靴と紫のはかまをはいた片足だけが残っていた。このようなことを世に言う焦熱地獄かと思った。一緒に避難した店の者の生存を確かめるため、大声で名前を呼び歩いたところ、15名中、9名死に1名の重傷者(翌朝死亡)がわかった。このとき大声で群衆を整理していた人がおり、相生警察書でただ一人生き残った警察官であった。 
 朝から何も食べていないので空腹と咽が渇ききっており、隣接地区の製氷会社の倉庫に行き、氷で渇きをしのいでいた」

◎インタビュー4.平山 昌次氏(1990年10月15日)

Q:平山さんは、震災当時は何歳ですか。
A:22歳。徴兵制度で行く年。軍縮の真っ最中だから、兵隊はゼロだったんです。
Q:この文を見ますと、当時の住所は、若宮町76番地。
A:ええ、今は石原2丁目ね。僕は当時紅商伊勢半本店っていうところにいたんだよ。口の紅ね、これを製造したんだ。これを宮中へ納めておったんだ。昔はね十二単でもなんでも全部この紅を使ったんだ。
Q:当日は朝から雨が降っていたということですね。
A:当日は、朝からもの凄い雨でね、ざんざん降りぶりでね。でも、こやみになったから、僕は駒形の住友銀行へ店の用事で預金に行ったんだよね。その時の格好は、和服で下駄はいて、番傘を肩へかけて、それでトコトコ行ってだね。その時に厩橋を渡ったね。すると、もの凄いカモメなんだね。「ははあ、これは海が荒れてるな」と思ったね。それで、預金を済ませて帰ってきて、店の約200メートルくらい手前まで来たら、グラグラグラっときたんです。それで当時は、薪や炭や何かは、高いところへみんな積んであったんです、昔の商人は。それが、ガラガラガラって崩れて。当時、煎餅屋なんか家で火を炊いてるね。ちょうどお昼時だよね。それでみてみると、ほとんど土台がみんな腐ってるよ。あのへんは水溜りが多いから。瞬く間にみんな壊れた。それで火でしょう。それで、さてどこへ逃げようたって、駆けつけたところ火だから、右往左往なんだよ。で、うちの店は工事中で。ご飯も食べないで。それで僕はそこへ駆けつけて。けれどもここは駄目だ。仕様がない避難しようと。だけど、避難するったってどこへ行くんだと。厩橋は渡れないんだ、壊れて。で、蔵前に火事があって、もう渡 れない。それから千歳町はもう火事。千歳町っていうのは、吉良上野介の生まれたところ。それから、吉田町が火事。周り中、火事でふさがっちゃってる。
Q:千歳町っていうのは、今のどこですか。
A:今の一ツ目っていうところ。
Q:吉田町は。
A:吉田町っていうのは、これにくっついてる。亀戸に出るところ。亀戸に逃げる方ね。それでそっちも火事だし。こりゃ仕様がないといっていると、あなた方ももう聞いて知っているでしょうが、あそこは陸軍の被服廠、そこを取り払った跡なんだよね。それで広いんだよね。被服廠へ行けっていう声が聞こえたんだね。じゃあ、その被服廠へ行こう、その跡へ行こうじゃないかと。何か食わなきゃ仕様がないと。ちょうど道路のそばに餅菓子屋があった。そこで餅菓子をしこたま買って持って、被服廠の中へ入って、「まあいいや。ここで一つなにしよう」と言って、車座になってるとたんに竜巻だよ。これがおかしいんだよね、今考えると竜巻って怖いもんだと思うでしょう。ところが、周り中が火事だから真空になってるよ。たちまち火が消えたよ、あんた、火が。それで逃げだしたんだけれど、もう右往左往でね。あれを言うんだ、苦しいときの神頼み。南無妙法蓮華経、南無阿弥陀仏、もう夢中だったね、泣き叫んで。そういうことなんでね。もう一つ悲惨なことはね、今でもあるけど、安田保善商業学校が建築中だったの。あそこに建ってるでしょう。ところが、「高波がくるぞ」って言うんでね 、みんなそこへ上がったのよ、大勢鈴なりに。そしたら、一瞬のうちに一人もいなくなったね。みんな落っこって死んだ。もう一つ、被服廠と保善の間に道路があった、約一メートル半くらいあったかな。そこに下水道があったの。そこは寿司詰めなんだ、ずーっと。
Q:人間で?
A:ああ、人間で、寿司詰めにされちゃってね。それで、どうにもこうにもしようがないって。そのときにね、太陽がものすごく大きかったんだね、夕日が。僕は、こういうこと考えたんだよ。これはここだけじゃない、世界中こうなったんだと思った。私はそう思った、体験がないから。それで、火傷はしてるし、どうするもできない。私も群衆と一緒になって駆け出したんですよ。駆け出したところはどこかっていうと、みんな行くところは、安田善次郎の塀だったね。その上にガラスが全部植えてあるんだ。で、行ったって入れないわけだよね、塀があるんだから。僕らは踏まれてね、うんと踏まれたね。それで、この後だけれど、女学校が若宮公園にあったんですが、ほとんど全滅で、袴と靴の片方だけ1つあった。それから、あのあたりにはお相撲さんの部屋がたくさんあったから、相撲とりもそのまま窒息して死んでる。それでね、私がどうして助かったかというと、倒れた瞬間に苦しくて息ができない。ところが、うつ伏せになったら、そのうち下へ地べたへ向かって涼しい風がすっと吹いてきた。どうして地べたに向かったというと、地べた一寸、二寸は空気あるんだってね。それにぶつかった わけだよね。それで、こう行くと、雨降りがあったんで、水溜りがたくさんある。思わず手にするのが水なんだ。そこへまず飛び込んで、身体をびっしょりになって、濡れて。それで、あぐらをかいて、フーッと息をつく。で、火がくるでしょ。すると、泥水をすくっちゃあ、かけて。その当時は、みんなもう泣き叫んで、年寄りも「水をくれ、何もくれ」って、騒ぐ人がいて。私は思わず、汚い水をすくってやったら、そのおばあさんすぐ死んだわ。もっと悲惨なのは、赤ん坊が生まれてる人のおなかが切れて、赤ん坊が顔を出して。これ実録だからね、嘘は1つもないんだ。そういう事態だったんだ。もう仕様がない。それで、夜になってね。何人か生き残ってるかなと思って、呼んだところがね。ほとんど真っ黒こげでわからない。当時ここに、おトメさんっていう娘さんが一人、息絶え絶えでいたんだ。それを僕は背負い出してさ、年寄り夫婦は助かったから、そこへもってきて、この娘だけが朝まで両親の膝枕で亡くなったと。
 そこで朝になって、一番怖いのは、僕はこれにも書いたけど流言蜚語ですね。なになに人が爆弾を放り込んだとか、蔵前のガス栓を抜いたとか、井戸に毒物を入れるとか、盛んなデマでしょう。高波がくるとか。これはみんなデマだね。
Q:朝鮮人の流言ってのは、一番最初どこで聞きましたか。
A:それは燃えてから後に。世の中じゃあそんなことはわからない、だからそういうことに惑わされるってことが一番いけない。それから、もう1つ言えることは、当時はみんな馬力だよね。馬力で家財を被服廠の中へ運び込んだね。みんなまいっちゃったけど、馬が2匹、朝まで生きてたの。馬が2匹火傷して。そういうことがあったんだよ。
Q:馬に蹴られて死んじゃったって人もいるんですか。
A:それはわからないけど、蹴るだけの力はないでしょう、馬は。もう身体に火もついてるし、まいってるから。馬は火を怖がるからね。全部そう。それで不思議なことに、厩橋と両国の間に御蔵の渡しってのがあった、そこが木の橋。これだけ焼けなかった。それを渡ると両国の駅だ。そこへ行くとサツマイモや何かが山ほどあって、それを拾って食べて。もう一つ反対側に江東製氷会社って製氷会社があって、これが無事だった。そこへ行ってみんな氷を持ってきてね、それで命をつないでおったんです。翌日になって、10時頃かね、初めて玄米の握り飯を一個づつもらった。それで、表へ出れば、都電でもバスでも何でも全部黒こげでしょう、運転手から何からみんな。これが私の経験したこと、実際の話だから。
Q:一緒に逃げた人は大部分死んだんですか。
A:7人。女中さんとか小僧さんとか、一人も身元が分からない。真っ黒こげだから。指だって真っ黒こげだから。もう1つ恐ろしいことは、夜になって死んだ人やなんかの貴金属を盗る、指輪を切断したりなんかして。こういうこともあったんだよ、すごいもんだね。で、いよいよこんなことしたって仕様がないから、ここを避難しようと。高波の来ない所へ行こうというんで、四つ木橋を渡って、がま口の皮を製造しているうちがあって、そこへ頼んで、残った者を助けてもらって。そこへ行く途中にも、死体がいっぱい浮かんでいるんだよな。で、そうこうしているうちに落ち着いてきたから、5日目に焼け跡に行ったら、もう何もないね。それで、亡くなった娘さんの場合は、おばあさんが「どうしても、しょって行く」って言うんだ。「しょってくったって、しょってけないだろう」って。で、所番地と名前を書いて、針金で足を結わえて、それで向こうへ行ったんです。1人だけ残して。それから、翌年の1月15日にまた揺り返しのすごいのがあった。そのときは、本郷におったんだけどね。
Q:そうですか。どうも長い間ありがとうございました。

1ー5.木に引っかかる死体

 次に、女性の体験者を紹介しておきたい。まず、名和喜代さん。名和さんは当時16歳。地震のショックから立ち直ってすぐ父親と2人で避難を開始したが、途中で、警察官の指示により被服廠跡に入った。そのうち、火災旋風に襲われ混乱の中で父親とはぐれてしまう。彼女一人で逃げ回るうち安田邸に出て、とっさに池のなかに飛び込み、一命をとりとめた。

◎手記

「木に引っかかる死体    名和喜代(本所区外出町)
当時私ども父母と兄妹3人は工場の従業員20数人と住んでいた。
私は府立第一高女の二年生で始業式から帰宅、浴衣に着替えてアルバムを見ていた。突然ゴーツという音に何だろうと思って顔をあげた瞬間、ドンと突き上がりガタンと落ち、大揺れに揺れて歩こうにも歩けない。畳の上を這うようにまごまごしているうちに、目の前に隣家の屋根瓦が現れた。驚いて外へ出ようと思ったが、思うように動けない。突然私の名を呼びながら父がよろけながら私の手を握った。早く逃げるのだと手を引っ張り、やっと外へ出て驚いた。つぶれた家々の屋根瓦の山、もうもうとした土煙りの中を父と私は、外手公園から石原町あたりまで走って来たとき、巡査が被服廠へ逃げろと誘導していたので、みな被服廠跡めがけてかけ出した。もう広場は一杯で、荷物を引いた馬、大八車に満載した畳、家財道具、そのそばでもたれるようにしている怪我人など、不安とあせりで私達は危険ということは全く気付かなかった。
被服廠跡は火に囲まれ黒煙の中を炎が上がっている。「広いけど大丈夫かしら」と話ながら少しでも落ち着きたいと思っていた。この大量の家財道具に火がついたらどんな惨事になるかなどは夢にも考えていなかった。空は真黒、その中に絵の具で塗ったような真っ赤な大きな太陽が見え何とも不気味な光景、「お母さん達、大丈夫かしら」「大丈夫だよ、大勢いるから皆と一緒に来ているよ」私達もこのまま火は消えるものと信じ込んでいた。と突然ゴーツという音と一緒にものすごい風が起こり、アツという間に物はみんな飛び散り、火が私達の中に舞い込んできた。「お父さんお父さん」と私はころげ廻りながら呼び続け、父の手を求めたが、その時はもう父と離れ父の声は聞こえない。私は声の続くかぎり父の名を呼び続けた。ころんでは起き、起きてはころびして真暗闇の中を走った。折り重なった死体の上も走った。闇と火の二色だけの中を走り廻ったのだ。急に気味悪いばかりの静かな所に出た。一方は火で明るく、一方は真暗で何ということなしに暗いほうへと歩いていった。安田邸の池に出た。私は夢中で池の中に飛び込んだが火の粉が顔にふりかかり、その度に頭を水の中に入れて防いだ。「 駄目だ駄目だもっと頭を沈めて」と人の声、ああ人がいた、生きている人が。私はその男の人に支えられて初めて涙が溢れた。池の中にはかなりの人が生きていた。ああ、私は生きていたのだ。
あたりがボーツと明るくなって私はこんな光景は恐らく終生めぐり会う事はないだろうと思ったぐらい震えが止まらなかった。木という木は真黒に焼けぼっくいになり、その木の股に焼けただれた死体がまたがっているではないか、身体中の力が抜けてしまった。親切な人のお蔭で隅田川の川ぷちまできたとき初めて浴衣は裂け手足が血だらけなのに気がつき、急に痛みを感じその場に横になってしまった。ふと気づくと、何と軍隊にいっている隣の人がいるではないか、命令で救助隊員としてきたそうな、いろいろお世話になって、その後、両乳房が焼けただれた母や全身火傷になり気絶して暁方の雨で気がついたという兄、軽傷の従弟、工場の人達などど再会することが出来て初めて大声あげて泣いた。しかし父の姿はいくら探しても見当たらなかった」

◎インタビュー5.名和喜代さん(1990年10月3日)

Q:震災の頃、お宅はどちらだったんですか。
A:あのう、厩橋を渡りきった本所寄りのほうですね。
Q:両国の北っていうところですね。
A:ええ、ずっと北で。同愛病院っていう、あそこから、もうちょっと本所寄りに行きましてね。それで、慰霊堂ございますね。あそこの前をずーっと行きまして、4つ角がありましてね。そこへ入って、そうですね、10分くらい歩いたところに天理教の大きなお家があって、そのそばにおりましたの。
Q:ええと、お父さんとお母さんとご兄弟3人とありますけど、この頃お父さんはどんな工場も経営なさってましたか?
A:あのう、昔、蚊帳ってございましたでしょう。つり手で環がございますでしょう。
Q:ありますね。壁に引っかける環ですね。
A:ええ。あの蚊帳の環を作ってました。
Q:従業員が20数人というと、相当大々的に。
A:うーん、まあね。なんか、あそこいらはゴチャゴチャしてましたけれど、そうですね、環とそれからあの頃はまだヒモは手にしてなかったか、兄になってからと思いますね。やっぱり環だけでしたね。
Q:なるほど。外出町のあたりは、工場が非常に多かったですか?
A:そうでもないんですよ。所々にあるっていう。ちょっとした中小企業っていうんですか、でも、あんまりあるっていうのでもなかったですね。
Q:それで、震災の日ですけども、あの日は始業式の日ですよね。
A:はい。そうです。
Q:ええと、区立第一高女。
A:はい。ちょうど始業式でね。帰ってきて、浴衣に着替えましてね。それで借りてきた本なんか見てたときだったんですのよ。
Q:ガーッときたんですか。
A:もう、グンときてね。それこそびっくりしました。
Q:生まれて初めて。
A:ええ、初めてでした。
Q:地震っていうのは、こうグラグラ最初の小っちゃい揺れが来て、それから段々強くなって。
A:あのときは、そうじゃなかったですね。
Q:突然ガンと。
A:ええ、突然、ガンと来ましてね。そして立とうにも立てないんですね。それで、ちょうど住まいと工場と隔てて、店がありましてね。その店に父がおりましたの。で、母は女中たちとごはんの支度をしてました。ちょうど11時58分でしたからね。それで、父が店から飛んで来て、「喜代いるか。どうした、どうした」って言って来てくれましてね。それでもうなんかおろおろしちゃって、どうしていいか分からなかったんですけどね。
Q:名和さんが一番下なんですか?ご兄弟は。
A:そうです。
Q:お兄さんと。
A:兄が2人。
Q:じゃあ、1人娘なら心配して。
A:甘ったれてました。
Q:それで、その地震のあった部屋は、どのくらい広いところなんですか?
A:私がいた部屋ですか?あそこは8畳でした。
Q:食器棚とかありましたか?みんな壊れちゃう。
A:食器棚はなかった。食器棚は台所の方にありましたんでね。
Q:じゃあ、タンスですか?
A:ええ、タンスとか。その頃、お琴なんか床の間に掛かってましたでしょう。別に倒れるっていうことはなかったですね、タンスなんかは。
Q:で、お宅は結局潰れちゃったんですか?
A:潰れません。瓦が2〜3枚飛んだだけでした。
Q:ご近所はどうだったですか?
A:私の住まいの前が細い通りだったんです。その頃、東京駅の駅長さんをしてらっしゃる橋本さんっていう方がいらしたんですね。ちょっと見たら、その前の橋本さんの屋根が見えるんですよ、潰れちゃって。それで家の中から、こりゃあ大変だ、屋根が見えるっていうんで。
Q:で、そのお宅には人がいたんでしょうかね。
A:ええ。で、亡くなった方がだいぶあったんですね。だから、その橋本さんは全然消息がわかりませんでした。何しろ、近所はたいてい全滅だったんですね。で、まあまあ1人か2人助かったっていうのはいいほうでした。ですけど、私のところでは、使っている職人が5〜6人死んで、それから父が死んで、それから隣に親戚が住んでいましたんですけどね、そこは全滅。1人だけ茂男っていうのが、今も残っておりますけども。
Q:で、地震の揺れがおさまって、お父さんが来てくれて。
A:はい。もう手をひっぱって、とにかく外に出ようって。あぶないんでしょうけども、外へ出ましてね。で、右往左往しているうちに、被服廠っていうところがありまして、大きなところだったんですね。広く空いてましたので、そこへ逃げたらって、お巡りさんが誘導してた。
Q:まあ被服廠も近いですからね。それで、その被服廠へ逃げようと思って、家族全員で向かうんですか?
A:いえ、別々でした。私は父に手を引かれて。だから、母や兄は後から行くからって言うので、全然知りませんでした。
Q:で、荷物やなんか持って。
A:いえ、何も持ってきませんでした。もう着のみ着のままで。きっと、家族のものも家にはいなかったんだろうと思いますね。職人たちも、みんな外へ出てしまったらしいんですね。
Q:そうすると、お宅から被服廠までどのくらいかかりますか?
A:10分。
Q:当時の被服廠の入口っていうのはどこでしたか?
A:あのう、入口っていうのはとくになくて、広いところのどこからでも入れたんですよ。
Q:じゃあ、塀なんかで囲ってあるっていうんじゃなくて。
A:そうじゃなくて。
Q:ははあ。なるほどね。
A:それで、その隣に安田善次郎さんって方のお屋敷があって、あとはお庭があって、その隣がずーっと空いてましたのね。ですから、そこはもう何もなかったんですよ。
Q:で、名和さんはお父さんと一緒に、被服廠のどのへんに。今でいうと、どのへんに行ったんですか?
A:うーん、そうですね。割合に慰霊堂の近くじゃなかったかと思いますね。
Q:ははあ。慰霊堂の近くね。で、もうその頃は人でいっぱいですか?
A:いえ、まだ。私が行ったときは、そんなにいっぱいっていうほどじゃなかったです。だけど、荷車だとか、なんかもう積んだ馬車とかね、大八車っていうのがいっぱい荷物を積んで。どこでも休んでるっていいますか、座ってましたけどね。でも、余震余震ですからね。
Q:ああ、始終揺れているんですね。
A:ええ。
Q:被服廠に着いたの何時頃ですか。
A:ええとね、地震が11時58分ですから、あそこへ着いたのは1時30分頃でしたかね。
Q:で、1時30分頃に行って、4時頃に火災旋風ですか。
A:はい。もう旋風が来て、なかが火の海になったもんですからね。
Q:1時ちょっとすぎに被服廠に行って、最初はまあ広いから大丈夫だろうと思ったわけですよね。
A:こんなに広いから大丈夫だよって言ってました。
Q:そのうちに外からだんだん火が。
A:ええ、ず−っと周りの火が中にむかってきたんですね。
Q:周りに火が出てだんだん心配になってくる。
A:心配になってきましたね。
Q:そうですよね。3時30分頃はもうどうなってるんですか。外なんか真っ暗なんですか?
A:はい、真っ暗でしたね。それで、ちょうど夕日ですか、太陽がもう真っ暗の中に、真っ赤にこ−んなに大きく見えたんですよ。それでなんか恐ろしかったんですけど。で、そのうちに旋風っていうんですか。あっという間に巻き上げられてたたきつけらたんですね。父に手をひかれてこうしてましたんですけども、いつの間にか手を離してました。それで、その時に「お父さん、お父さん」って言ったんですけどね。全然答えがないんですね。だから、その時にもう焼けトタンにでもぶつかってだめだったのか、ねえ。それはわかんないんですね。
Q:空を人間が飛ばされるのが、みえるんですか?
A:私たちは全然みえません。自分がもうパア−と浮かされて、そして気がついて。気がついたらもう立ちあがって、そしてかけ出したんですね、とにかく中を。だけど、その時はもう死んだ人がいっぱいだったらしいですね、その周りじゅう。そのぬらぬらした人の上を歩いてたって後から聞きましたけどね。その死体の上を走って、どっちへ行こうかと思いましてね、安田さんの池のほうへ行ったんですね。木 があって池があって、暗いところと明るいところがありましてね。明るいところは、もうこれは燃えているから、で、暗い方へ行きました。そしたら、そこへ池があったんです。それが安田さんの池だったんです。
Q:すると、その時はもう安田邸に入ってきちゃっているんですね。
A:ええ、飛び越えまして、入りましてね。
Q:門から入ったんですか?塀からですか?
A:塀も何もなかったです。あるいは焼けちゃってたのかどうかわかりませんけど。
Q:焼けたか、自然に門があいたかね。
A:ええ、何もなかったですよ。
Q:あのう、明るいところと暗いところっていうくらいしかわからない。みえないんですか?
A:みえません。それで、明るいところは真っ赤でね。まあ運がよかったんでしょうね。暗いところへ行ったんで。
Q:トタンだの何だのがビュンビュン飛んできたんですか?
A:ええ、来ました。私、今でもここにあとがあるんですよね。焼けトタンがパア−ンと飛んで来て、そして浴衣を着てましたでしょう。それで、ここなんかもず−っと火傷の痕がございます。浴衣がくっついてしまって、ただれるっていいますかね。
Q:でも、無我夢中でそんなのわからない。
A:ああ、もう痛いも何も。
Q:あのう、いろいろ話を何人かにお聞きしましたらね、足袋をはいてたから走り回れたっていう人がけっこういるんですよ。
A:はあ、私は、学校から帰ってきて、素足で下駄をつっかけていきましたからね。
Q:素足で。
A:裸足でした。
Q:そうすると、被服廠でいつのまにか脱げちゃうでしょうね。
A:ええ、裸足でした。
Q:足なんか怪我はしてませんでしたか?
A:してません。いえ、足の裏だけちょっと。先は大丈夫でした。
Q:そうですか、瓦礫を踏んだり、ガラスを踏んだりで動けなくなっちゃう。
A:そういう方もあるんじゃないですかね。
Q:で、お父さんと手をつないでて、離れて、いつの間にか1人になっちゃった頃は、もう回りは火の海ですか?
A:うーん、ちょうど旋風が来た時ですからね。旋風とは知らなかったんですけど。
Q:旋風は何時頃来たんですか?
A:そうですね。たしか夕日があってからだから、3時か4時頃の間じゃないでしょうか。
Q:それからはもう地獄みたいなものですよね。
A:そうです。もう本当に暗くて見えませんでしたから、ただ、自分が助かったって思うだけで。で、あの池の中でとても親切な方があってね、頭へ水をこうかぶせたり、かけたりしてくださる方があったんです。
Q:安田さんの池っていうのは、そんなに深くないんですか?
A:そうですね、平気でした。中は浅かったですね。
Q:それで、安田さんの池に入るのときは、もう夜になってましたか?
A:まだ、夕方。
Q:そうすると、それからも。
A:ええ、火の粉が飛んでくるのを防ぐだけで、ただそれだけで夢中でしたね。
Q:そこには何人くらいいましたか?
A:さあ、それがわからないんですよね。ただ、人の声がだいぶしましたね。で、池の中にずーっといましてね。そこで夜が明けたんです、池の中で。
Q:ふっと気が付いたら、夜が明けていた。
A:はい。もう明るくなってました。
Q:その頃は、被服廠はぶすぶすしている具合いで。
A:ええ。ぶすぶす燃えてます、まだ。それで、もう木がみんな真黒けにこげてましてね。
Q:場所はどちらでですか。
A:あの被服廠の回りですから、安田さんの木ですね。中にはなかったものね。それで、ここにも書いたんですけど、木のまたに死骸がまたがって真黒けになってね、人だか棒きれだかわかんないような人がね。
Q:何人も何人も。
A:ええ、またがっているんですよ。
Q:どういうんでしょうね。飛ばされちゃってかなあ。
A:飛ばされてひっかかってね。いやあ、すごかったですね。
Q:で、明け方になって池からはいだしますよね。みんなぞろぞろ池の中から助かった人がはい出しますよね。
A:それが、幾人くらいいたかはわかりませんけれども、みんな出て、そして両国の国技館のところに、川っぷちがあるんです、隅田川のね。そこへ行きました。
Q:だけど、食べ物も水もない。
A:もう何にもありませんでね。
Q:その川っぷちでみんな呆然としているんですか。
A:そうです。それから、まあ父の名を呼んだり、歩き回って捜したんですよね。だけど父はいませんで。そのうちに、その時分ちょうど隣にいた鷲津さんっていう人の息子さんが、中野の電信隊にいたんです。で、その方が、あそこいらを救うために派遣されて。それで、あのあたりに来たんですね。で、偶然に私が横になっているのを見つけましてね。
Q:ああ、もう疲れてっていうか、怪我して横になっていたんですか。
A:ええ。そろそろ痛くなってきたもんですからね。それでもちろん、土の上に横になっていたんですけど。そしたら、喜代ちゃんじゃないかっていう。それでびっくりして。そしてその方が、あの時分は糧秣廠っていいまして、いろんな食糧を蓄えていたところがあってね、そこにスイカなんかがあったらしいんですね。それで、それこそあったかいスイカを持って来てくれて、口に入れたりしてくれましてね。 本当に助かりました。
Q:その糧秣廠は深川にあったんですか。
A:ええ、そこいらへんの見通しがずーっとありましたんで、そこまで行ってくれたんですけどね。
Q:その鷲津さんっていう人の年齢は。
A:そうですね、私が16でしたから、そうね幾つ違いかしら、6つくらい違うんじゃないでしょうか、私と。で、その方はもうご自分のおうちも全滅でした。ご自分だけ助かって。
Q:それで、その生温いスイカを食べて、それからどうなったんですか。
A:家族を捜してきてあげるから、まあちょっとそこに寝てなさいって言われて、それで捜しにいってくださったんですけども。そのうちに、母が誰かに支えられてヨタヨタと来たの、私のところへ来たんですよ。それに会いまして。でも、上半身が焼けただれましてね。びっくりしたけれど、嬉しかったですね。
Q:じゃあ、誰かが連れてきて偶然会ったんですか。
A:偶然なんです。
Q:鷲津さんが連れてきてくれたんじゃなくて。
A:そうじゃなくて。
Q:お母さんの話は聞きましたか?やっぱり被服廠へ逃げたんですか。
A:ええ、そうです。一緒に逃げたっていうんですよね。まあ、場所はね、分かりませんけどもね。それでそのもう1人、従兄弟がね、家にいましたんですけど、あの、それがヨロヨロと歩いて来まして、やっぱりそこへ来ましてね。それから兄が2人ともやっぱりそこへ来たんです。だからみんなそこで会えたわけなんです。
Q:2人のお兄さんも被服廠へ逃げたんですか。
A:そうです。
Q:お母さんと一緒に逃げたんですか。
A:そうらしいですね、後で聞きますと。でもやっぱりバラバラだったらしいですね、最後には。みんな旋風に遭ったと思いますけどね。それで、兄はひどい近視でしたから、眼鏡が飛んでしまって、眼鏡かけてるように眼鏡のあとが焼けてるんですよ、顔中ね。とのかく一番ひどい火傷でした、一番上の兄ですが。全身の3分の1以上だから、もうこりゃだめじゃないかっていうくらいの火傷でしたから。それから下の兄は、なんか頭へぶつかったらしいんですね。そして気絶してて、翌日になってちょっと雨が降ったんですね。それで気がついて、そこんとこだけの怪我で、あとは何ともなかったです。
Q:で、結局、お父さんは見つからない。
A:あとでいくら捜しましてもね。それから、遠い親戚ですけども、今の小菅のあたりですけど、その家へちょっとの間行きまして、そして休んでましたのよ。
Q:すぐですか。
A:ええ、すぐ。みんな、それこそ乞食みたいに裸で血を流してますからね。行列してすぐ行きました。
Q:二日ですか?
A:そうです。二日の早かったでしょう、夜が明けてまもなくでしょうかね。
Q:そうすると、被服廠から歩いてどのくらいですかね。2時間くらい?
A:ずいぶんあるんですよね。だけど、みんなで行列して、今の隅田川の土手をずーっと歩きましてね。で、四つ木橋っていう橋があるんですけど、そこから曲がって行って、ちょっとのところだったんです。
Q:そこは燃えなかったんですね。
A:燃えなかったんです。
Q:お母さんの親戚ですか、お父さんの親戚ですか?
A:父の方なんです。それから、母の方も向島ですから近かったんですけど、父の方の親戚に行きました。
Q:それで、お母さんとみんなで治療したわけですよね。で、そこに何日くらいいましたか。
A:そうですね、2ヶ月くらいいました。で、私なんか立てませんし、歩けませんでしたから、やけどがひどくてね。それから母も治療。でも、治療っていっても医者があの頃あんまりわからなかったもんで。ちょうど、そこの主人が看護卒をしてた方だったもんで。その方がクレゾールのお湯をさしてくれまして、そしてそれで治りましたのね。だから何にも薬をつけないでねえ。
Q:結局、お父さんが出てこなかったわけですけど。
A:ええ、毎日職人たちが被服廠に行きまして、死骸をひっくり返して見てくれたんですけど、とうとう見つかりませんでした。
Q:職人さんたちはだいたいどこへ避難されていたんですか。
A:二葉町の方へ逃げたり、竪川方面に逃げたり、被服廠へ入った人もいるんです、たくさん。
Q:だいたい通いの人が多かったんですか?それとも住み込みだったんですか?
A:小さい小僧さんは家に泊まってました。
Q:おとうさんが亡くなって、大黒柱がなくなっちゃったんですけど、2ヶ月くらいお世話になってて、後はどうなさったんですか?また元の場所に戻るんですか?
A:ええ、後は早くバラックを建てなきゃいけないっていうんで、私たちがいる間に兄が火傷が治ってから。だから、あるいは3ヶ月くらいいたのかもしれないですね。それで、焼け跡に出向きまして、それこそ捜すのも大変だったらしいんですけどね。で、早速もうバラック建てようっていうことになりましてね。でも、父がいないもんですから後をどうしたらいいのか。兄たちはまだ学生ですからね、二人とも学校でしたから。工芸学校ってありますでしょう、水道橋の角に。あそこに行ってましたから。
Q:お父さんが亡くなっちゃって、その後大変ですね。
A:もう、どうしようと思いましてね。でも、思いきって後を継ぐって決心したらしくって、それで兄が学校辞めようって。で、ちょうどいい職人がいましてね、それが力になってくれて、それから再建しようとしましたんですね。
Q:なるほど、じゃあ職人さんと一緒に蚊帳の環を作りはじめたんですね。
A:そうです。何しろ蚊帳の環に模様がありますもんで、それを、ペレスっていってましたけど、それをドーンドーンとつくる機械がありまして、だから後から通ってきた職人がそれで死んだんですね。
Q:結局、名和さんは第一高女は辞めなくてすんだんですか?
A:辞めようと私も決心しまして、学校に届けを出しましたのね。そして行かなかったんです、しばらく。そうしましたら、うけもちの板倉先生が来て下さって、せっかくここまできたんだから辞めるの惜しいし、勉強を続けた方がいいでしょう。もし月謝なんかでお困りならば、私の方でなんとかしますからぜひいらっしゃいって、わざわざいらして下さったんですよ。それで、母も「まあ、行きなさい」っていって、行くことになりました。で、その頃は向島の母の方の親戚にいまして、そこから歩いて通いまし た。
Q:お宅はバラックを建ててもとのところに住むわけですけど、近所の人たちはどうなんですか。さっきの橋本さんじゃないですけども。
A:全然もう戻って来ません。
Q:そうすると、新しい人が入って来るわけですね。
A:しばらくはもうどなたもいませんでした。バラックを建て始めたのはうちが初めてじゃないでしょうか、あの近所で。でも、今お話を聞くと、被服廠に行った人って思いのほか少ないんですね。やっぱり、ちゃんと考えている人は上野へ逃げましたよね。
Q:上野の山へさっさと橋を渡って逃げたっていう人は、けっこういますよね。
A:それで、私どもは今考えると、本当に馬鹿だった。考えれば、回りから火がくればダメなわけでしょう。そういうことも全然考えないで、ただただ広いとこがあるからって行きましてね。
Q:まあ、おまわりさんが被服廠へ行け行けっていってたのもありましたけど。お宅では、何の疑いもなくまっすぐ被服廠ですか。
A:ええ、まっすぐ行っちゃった。あのう、上野は焼けなかったんですよね、やっぱり木のせいじゃないでしょうか。木がたくさんありましたものね。本所の人も助かった人は上野へ逃げた人が多かったんじゃないでしょうか。さもなきゃあ、地震があると同時にもうこりゃダメだと思って自分の田舎のほうへ逃げた方もあるかもしれませんね。
Q:運の悪い人もいて、浅草で地震に遭って被服廠へ逃げた人もいるんですよ。名和さんは戦災にもお遭いになってらっしゃるんですか?
A:そうなんです。
Q:戦災はどちらだったんですか。
A:本郷の弓町で遭いました。あそこも、戦争の時は焼夷弾が落ちまして、ちょうど私が防空壕に入ってる前に落ちたんですよね。それから飛び出して行って消しました。それから、また地震のことになりますけど、もうその頃からですね、あんまり怖くなくなりました。地震が。今は相当の地震あっても、大丈夫だと思いますね。子供たちが大変だなんていうとき、大丈夫、このくらいならまだ大丈夫だなんて。
Q:あの震災にくらべたらね。
A:そうなんですよ。でも本当に、なんで被服廠に行ったかなって悔やまれますね。
Q:地震のあとに、何か噂を聞きましたか。
A:ええ、ありました。私が親戚の家でやけどの治療をして、寝ている時でした。もうだから、間もなくですね。みんな鉢巻をして出かけるんですよね。それから、どうしたのかっていったら、そのそばの井戸へ朝鮮人が毒を入れたっていう噂がでて、みんなで朝鮮人を見つけに行くんだっていってね。みんな竹槍持って。木刀も見ましたよ。
Q:それは、どんな人たちなんですか。
A:近所の人たちですね。だけど、朝鮮人じゃないっていう証拠になるようなことをさせられたのかもしれません。そういう目にあった人も2、3人聞きました。あれなんかは、デマだったんでしょうと思いますよ。
Q:デマだったんですよ。朝鮮の人だって地震で被害を受けているんだから。
A:本当ですね。でも怖いですよね、デマっていうのは。みんなその気になってね。鉢巻して出かけちゃうんですよ。もう何にも聞かないで。
Q:それから、当時の政府からは何か援助がありましたか、救援物資とか。
A:私たちは何ももらいませんでした。やっぱり、直接現場の方たちだけだったんじゃないでしょうか。何もありませんでした。政府からの補助は。
Q:家を建てる時なんかも?
A:ええ、もう全然。
Q:小菅の親戚の方のところには、他の親戚なんか来てなかったですか。
A:来ませんでしたね。後からチョコチョコ来るかなって思ったんですけども、私たちだけでした。
Q:回りの家に避難してくる人はいました?
A:小菅のあたりですか?静かでした。何にもそういうことなかったみたいですよ。ただ私はずっと寝たきりでしたから、外の様子はわからない。
Q:バラックには、結局何年ぐらい住んでいたんですか?
A:バラックね。大正12年でしたよね、地震が。13年の終わりくらいからバラック入りました。それからずーっとおりました。私が22になるまでそこへ住んでましたね、家を建て替えるまで。あっそうだ、私が学校へ通っているうちに新しい家に変わりました、バラックから。
Q:新しい家は、前と同じ場所に建ったんですか?
A:そうです、同じ場所です。
Q:どうも長い間ありがとうございました。

1ー6.阿鼻叫喚の世界

 被服廠跡地の火災体験者の最後は、鷲尾菊江さんである。先にあげた宮崎氏や石上氏と同じく、鷲尾さんも地震時の年令は9歳。周囲に火災の煙が立ち始めると、彼女は母親とお手伝いさんと3人で被服廠跡地へと避難した。着いたのは午後4時少し前。かなり遅い避難といえよう。宮崎氏と同じく、彼女も自分が助かったのはあのとき足袋を履いていたためだと語ってくれたのが印象的だった。

◎手記

「阿鼻叫喚の世界   鷲尾 菊江(本所区林町)
 関東大震災当時私は9才、本所区立中和小学校4年生でした。あの日の事は生涯忘れられず、まるで昨日のことの様に恐怖がよみがえってきます。
 9月1日、父は朝から旅行に出かけました。その出かけに、なにか太陽のまわりが黒ずんだ異様な色をしていたと申しておりました。
 当日私は始業式の後、夏休みの臨海学校の荷物を受取っていたため帰宅が遅れ、母が私と昼食を共にするため待っていました。忘れもしません、その時のおかずはほうれん草のおしたし、いかと焼豆腐の煮つけでした。お腹をすかした2人が箸をとった瞬間、地下がズンズンと響き、たてに大きく揺れたかと思うと、ガラガラ、もう揺れるなんてものではありません。庭の地面が地響きをたて、地割れし、石灯篭が倒れ、棚のものは勿論、壁、襖、ガラス戸、何も彼もくずれ落ちて差塵をたてています。やっとの思いで隣の八畳間の座卓の下に母と一緒にころがり込む様に入り、法華宗でもないのに夢中で、題目を唱えて地震の静まるのを待ちました。ずい分長い間揺れている様でした。とてもガス栓を閉めたり、火を消す状態ではありませんでした。
 やがて揺れがいくらかおさまったので、外へ出ようとしましたが、家の中は目茶目茶、足の踏場もありません。それに余震が絶えずきますので、とても恐ろしく生きた心地ではありません。店の方は鉄材が散乱し、外へ出られません。いち早く外へ飛び出した店員達が私達を見ますと抱え出してくれました。誰れの顔も蒼白で恐ろしさにおののいております。外は電線がたれさがり、あちらこちら大きな地割れで地震の凄さを物語っておりました。向い側の間口の大きい大石酒店さんの家はぺちゃんこにつぶれ、並びの金物屋さんのおばちゃんが、つぶされた家の中にいると家人が騒いでいました。
 やがて、あちこちで煙が立ち始め、ここに居ては危険だと皆で相談の結果、私達は本所被服廠跡に避難することとなりました。母が古足袋を家の中から見付けてきて皆に足袋をはかせてくれました。今にして思えば赤いベッチンの冬足袋が私の生命を救ってくれたと思います。
 私達は、背中に小さな風呂敷包みだけを背負い被服廠跡まで歩いていきました。途中、大八車に沢山の荷物を積んだ避難民で歩けないぐらいでした。被服廠跡にたどりつき、私達は荷物がないので奥の方に入りひとまずゴザを敷いて休んでおりましたが、やがて火の手がだんだんと近づき荷物に火がつきはじめ、もうそこにはいられなくなりました。火の勢いと一緒に何か遠くで花火の様な音がポンポンと絶えず聞こえました。そのうち強い風が吹き竜巻となり大きな荷物が飛び散り、炎に追われた人達の髪に火がつきぼうぼう燃え、着物に火がついても消す閑もなく力かぎり逃げまどいました。荷物と人がごろごろ倒れている炎の中をしっかり母の手に握られ、幾度も人波につぶされた私は気を失ったそうです。どの位い逃げ回ったでしょうか、気がついたときは私は母のひざでうつらうつらしておりました。多分夜中頃だったでしょう。あたりは助かった人達が大勢いましたが、火傷を負った人達のうめき声「水をくれ」「苦しい」「助けてくれ」と阿鼻叫喚さながら、地獄とはこの様なことと子供心に思いました。その中に元気な男の人がゴム靴の中に安田庭園の池の水を汲んできて飲ませていましたが 、その水を飲むとぴくぴくとけいれんをして死んで行くのを幾人も見ました。悪夢の様な一日がやっと明け、私達のまわりは死人がごろごろ横たわり見渡すかぎり焼けこげた荷物と死者が山の様でした。
 近くの製氷会社から氷を貰ったので、私は小さな子供の焼死体を見ると口に氷を入れて歩きました。中には未だ呼吸があるのか口をぴくぴく動かしている子があり、思い出しても涙があふれてきます。
 ぼんやり母と二人で地面に座っていますと乞食の様になった我家の女中さんが大声で泣きながらとびついてきました。彼女もたいした火傷もせず助かったのです。又しばらくすると、谷さんの奥さんが両手に連れていた子供を亡くしたと、泣きながら私達の許へ来ました。背中の赤ちゃんは火傷で声も出ない程ですが、どうすることも出来ず、皆抱き合って泣きました。やがて私達は被服廠跡を出て千葉方向へとぼそぼそ歩き出しました。
 途中ビルの窓から首を出してそのまま黒こげになっている人、赤ちゃんをかばう様に抱きかかえて死んでいる人、もうきりがありません。馬もずいぶん死んでいました。しばらく歩いて行くと焼跡で五六人の男の人が炊き出しをしていました。女中さんがボロボロの前掛けの中に入れて貰ってきました。私達はよごれた手で一つかみづつむさぼり口にほおばりました。何しろ1日の昼から何も食べていませんでした。
 母は顔と背中に大火傷をして、まるでお岩さんの様でした。私達の背中の小さい荷物はどこへやら、着物はぼろぼろ、髪の中はじゃりじゃりでした。
 私達は放心した様にそれでも荒川放水路の鉄橋まで来ました。雨がしとしとと降ってきて川の水は地震の後か茶色くよどみ、水かさも増しうづを巻いて流れております。橋の真中にやっと一人渡れる位の板があり、その板にしがみつく様にはえずって長い鉄橋を渡ったのがとても恐ろしかったと覚えております。途中、小岩あたりで畑の中で野宿し、そこから貨物列車に乗せて貰い船橋にたどり着きました。船橋の小学校も避難民でいっぱいでしたが、おにぎりや着物を貰い火傷の手当もしてくださり、やっと人間らしくなりました」

◎インタビュー6.鷲尾 菊江さん(1990年7月27日)

Q:鷲尾さんはすごい体験をなさっていらっしゃるので、お話をお伺いしたいんですが。
A:これを書いてから15年くらい経っていますので。昭和50年ですから。
Q:震災のときは9才、4年生のときですね。失礼ですけど、ご両親はどういう職業をなさっていましたか?
A:鋼材屋。鉄を販売しておりまして、父はあの時分40ちょっとくらいじゃあなかったかと思います。わたしは小さいときこちらの家にもらわれて来まして、伯父のところなんです。本当の両親は日本橋のまぐろ問屋をやってまして、子供が8人いまして、この鷲尾の家は子供がいないんで、今度生まれたらこの子をもらうよなんていいながら、とうとう一番下のわたしが来るはめになったんです。それは3才くらいのときだったと思うんですが、記憶がないんです。それで一人っ子で育ちまして、女学校を卒業するまで自分がもらわれて来たということを全然知らなかった。それほど、可愛がられて育ってきたもんですから。
Q:震災のときは、お父さんが旅行中だったとか?
A:ええ。伊香保温泉へ行くんで、朝、いってくるよって。表に店がありましたから、この隣も隣もうちでして、その時分手広くやっておりました。それで父を送り出しまして。そのとき朝の7時くらいでしたけど、太陽の回りに黒い斑点がありましてね、あれ今日のお日さまはずいぶんおかしいなんて、みんなで太陽を見ながらそう言いました。
Q:被災されました本所区林3丁目というのは、ここなんですね。現住所ですね。それで、送り出して学校へ行くわけですね。
A:はい、学校へいきまして。その頃林間学校なんていうものに連れて行くってことはなかったんですけど、その時分はおそらく初めてだったって思うんですけど、それに参加しまして、帰ってきてまた始業式で学校へいきまして、うちへ帰って来てお昼を食べたときに、この思いもつかぬ地震が。
Q:地震っていうのはどんなふうにくるんですか?
A:ご飯をいただきますって言うと、突然お膳がボ−ンと持ちあがりまして、ゴ−と響いたんですね。すごい地響きが鳴りまして、小さい揺れもなくて。だからわたしは、小さい揺れだと大丈夫だって思っちゃうんですよ。そのときの地震はゴ−ゴ−って揺れまして、そのうちひっくりかえっちゃうんです。子供ですからなお感じたんじゃないでしょうかね。お膳のものは全部ひっくり返って、昔の電気なんか はみんなチョン切れて、棚のものはほとんど落っこちてタンスはみんなひっくり返えっちゃって、で、奥の部屋へ行った。表へ出ることなんかとてもできなかったですよ、いっぱいちらばっちゃって。で、子供ながらこのうちを最後にどうやってかた付けるのかって思ったくらいに、うちのなかがすごかったですね。
Q:それで揺れがおさまってからはどうしましたか?
A:揺れがおさまりましてからも、絶えず小さい揺れがあったんですよね。なにしろ表へ出なくてはいけないんですけど、店が鋼材屋でしょう。で、鉄がいっぱい積んであるんですよ。それで、昔は表に汲樽っていう樽があったんですけど、その樽がいっぱい積んであったのがひっくり返っちゃって、表に出ることができないんです、足場が。それで、店の人も7、8人いましたから、わたしと母と2人、それとお鉄さんという女中さんもいましたけど、その人たちは若いから表へ出ちゃたのかどうか。わたしたちは座卓の下へ入って、一生懸命拝んでね、南無阿弥陀とかいって。それで、わりと大きなうちでしたんで奥行が広くて、奥の部屋から庭があって廊下があって。その時分はいまのようではないでしょう。ですから、出て来るのがなかなか容易じゃあなかった。でも表へでましたら、電車の電線は落ちちゃってますし地面はド−ンと割れているんですよ。地割れがひどかったでした。
Q:近所で潰れている家はありましたか?
A:はい、家の前はビシーっとつぶれていました。つぶれて砂煙がパ−と出ていて。うちはつぶれませんけど。
Q:昔はこの道路はもうちょっと狭かったですか?
A:いいえ、同じでした。つぶれないうちもだいぶありましたけど、チョビチョビとつぶれてました。このへんは揺れがひどかったんでしょうね。
Q:それで、まずどこへ避難されましたか?
A:それで、昔でいえば店の番頭さんってのがいまして、ここらで空き地といえば被服廠しかない、いまの震災記念堂のところですけど。森下へ出まして、交差点を右へ真っすぐ行ったんですよ。被服廠まではけっこうあります。わたしたちはわりと早くに避難したんです、火はまだ全然出てはいなかったですけど、母とわたしとそのお鉄さんという女中さんと3人で。店の人は残りましたけど。で、両隣に谷さんと田中さんというおうちがあったんですよ、やすり屋さんと機械工具屋さん。そこのおうちの方たちとみんな一緒に被服廠へ逃げようかって、近所でいろいろ話しあったんです、表で。それで、みんなで被服廠へ行こうっていうことで行きました。店の人たちはどうしたか知らないんですよ。あとの人たちは上野へ行ったとか、店の人たちはそれぞれ別のところへ行って。最後まで残っていたらしいんですけど、火に追われて水のなかで助かったという人もいますし、おかげさまで1人も死にませんで、犬まで連れていきまして犬まで助かっているんですよ。わたしたちみたいに一番早く被服廠に逃げた者が一番ひどい災難。
Q:そのとき、誰が被服廠へ行こうと言ったんですか?
A:その番頭さん。父が旅行へ行っていなかったもんですから、自分が采配を振ってそこに行ったほうがいいと言われましたから、そこへ行きました。
Q:被服廠に着くのは何時頃ですか?
A:そうですね、もう夕方近くになっていたんじゃあないでしょうか。11時58分に地震があったでしょう。その後がたがたやってましたから、4時頃かしらねえ。
Q:その頃は避難の人たちがいっぱいいましたか?
A:ええ、そうです。みんなぞろぞろ被服廠に向かって行くんです。それで、わたしどもは割に荷物を持ちませんで、昔は大八車とかリヤカ−っていうのがありまして、自転車の後ろにひくあれですね、それこそ布団のなかへ病人を乗せてそれでひっぱって行く人もいましたし、もう通れないくらい大変でした、向こうへ行くまでは。で、行きましてもむこうもいっぱい混んでいるんですよ。それでまあ、なかのほうですいているところを探して、近所のかたのゴザがあったんでそのコザを引いて、ホッとしてやれやれって座って、ああ恐かったなあなんておしゃべりしているうちに、回りでボ−ンボ−ンというような音がしまして。それは爆弾を投げたって後でききましたけど、本当かウソかわからないですよ。爆発みたいな音がボンボンボンボンするんです。そのうちに火の手が上がってきまして、だんだんだんだんに火の手が広がってきて、みんなの持ってる荷物に結局火がついたわけですね。で、わたしなんか本当に人が飛ぶのを見ましたよ。ピュ−っとすごい竜巻が。それがひどかったです。それで、みんなこんなところに座っていたら大変だって、なにしろ奥の方へ逃げよう逃げようって、逃げる場 所なんかないんですけど。歩くよりしょうがないんですよ、火に追われまして。それで、前の人に火が飛んで来て髪の毛がジリジリ焼けるのを見ましたし、わたしもいまでもここにハゲがありますけど、このなかに火の粉が入ったらしいんですが、わかんなかったですよ。1週間くらい感じなかった。それで、船橋のほうに行って頭を洗って、ここがハゲてるってわかったんです。そのときは、なにかぶつけたくらいで何でもないんですよ。家の母なんかは気丈な人でして、金庫のなかから手提げ金庫を出しまして、それを大きい風呂敷に包みましてそれをしょったんです。そのなかにあったバラ銭なんかを全部つめまして。わたしもなにか小さい荷物をしょわされたんですけど、それもどこかへ飛んで行っちゃって。でも、母はそれを離すまいと思ってしっかりしてましたですよ。背中はこんなに、顔もすごい火傷でお岩さんみたいですよ。それでわたしの手を引きまして、おとなりに田中さんにイクちゃんっていう子がいましたけど、わたしより3つ4つ下なんですが、その子と両方の手を引きまして、それで2人を助けたんです。気が付いたときには母の膝で2人とも寝てまして、そのときはもう夜ですけど 、回りは全部真っ赤でして、死人の山で、「苦しい、助けてくれ、水をくれ」って阿鼻叫喚なんですよ。
Q:すると、逃げ回っているときの記憶はないですか?
A:ええ。わたしは人を踏みつぶしちゃったと思うんですけど、もう弱ってる人を。その上を越えまして逃げたんですけど、みんないい塩梅に足袋をはいていたんです。ゲタはどこかへ行っちゃったんですけど、昔ベッチンの赤い足袋があって子供はみんな冬はいたんですけど、それをはいていたもんですから。熱いですから裸足ではそうは逃げられないです。それで、被服廠というのはゴロゴロいっぱい資材が置いてあったんです。鉄のレ−ルみたいなもんだのなんだのいろいろ置いてあって、避難した人の荷物ばかりじゃあなくて、被服廠の荷物もあったんですよ、ゴタゴタと。
Q:そういうもののなかで足袋がなかったら、踏み抜いて大変でしたね。
A:はい。でも、後で気がついて足袋をとったらケガだらけでした。ええ、血だらけでした。でも、そのときは子供ですし夢中ですから、泣いたり痛いなんて言ってられないんですよ。すごいもんですねえ、生に対する執着は。
Q:それでは、田中さんのお宅も全部助かったんですか?
A:田中さんのお宅は、その子のお兄ちゃんと妹さんと2人亡くなっちゃって。それで、そこでずっと眠ちゃいまして。怪我人だの病人の山のなかを、わたしたち気がついたんですけど、そのときはもうそのなかもいっぱいでしたから、元気な人は安田庭園のなかのお水を汲んできて、みんなに飲ませてくれたんです。なんか製氷会社があったとかで、そこで氷のぶっかきをもらって来てくれて、わたしたちみんなに配ってくれたんですね。それで、1夜がそこで明けたわけですよ。
Q:じゃあ、被服廠で1晩過ごしたんですね。死んだ人の数は多かったでしょう。
A:多いです、3万3千人死んだんですからねえ。でも、そこの人はひとかたまりに助かったんです。死んでる人のなかにも、だいぶ生きてる人もいたんです。それで朝、目が覚めて。親は寝ませんけど子供ですから寝ちゃって。目が覚めたらそこらじゅう死人の山で、向こうのほうを見れば瓦礫だの死骸だの、どこもかしこもそうなんです。それをぬって、空いている土のところへ行って座っていましたら、どこどこのだれそれさんという札を持って探しに来るんです。うちでもだれか探しに来てくれればいいなって思って、ずっと何も食べずに朝から2時頃までそこで待っていたんです、氷のぶっかきだけで。それで待っていたんですけど、だれも来ない。そしたら、その谷さんというのが奥さんが助かって。みんな旦那さんはいないんですよ、他へにげて。女子供だけで谷さんも来たわけです。田中さんも谷さんも、旦那はいないで奥さんと子供だけで早く避難したほうがいいっていうんで被服廠へ来て、そういう思いをしたんですよ。
Q:谷さんも田中さんも、旦那さんも助かったんですか?
A:はい、みんな助かっているんです、子供さんが2人ずつくらい亡くなりましたけど。谷さんのうちにはハナちゃんっていう子がいまして、その子もやっぱりいないいないといって、新聞に出たんです。東大の先生に引き取られて、「可愛いハナちゃんお年は5つ、お父さんもお母さんもいないで一人ぼっちでハトポッポ」なんて、なにか映画みたいに写しましたよ、有名で。わたしも会いに行ったことがあるんですけど、目黒に東大の研究所みたいのがあって、そこの先生のところへ預けられて、うちに帰るのやだなんてね。うちは3人ともみんな助かりましたけど、お隣りさんは子供さん2人ずつくらい亡くさ れて。
Q:で、女中さんも助かったんですね。それで、2時頃までボンヤリしていてそれからどこへ?
A:それで、ここにいてもしょうがないからっていうんで、うちの母が、船橋の大樹院様っていうのがあるんですけど、いまでもあると思いますが、うちはそこの工元かなにかで工事をしていたんですよ。で、そこの神官の方と仲良くしていたんですが、そこを頼って行こうっていうことになって、みんなで歩いて、小岩くらいまで乞食みたいなかっこうで、足を引きずってね。谷さんのお子さんは、お母さんに負ぶさって火傷で痛いよ痛いよって泣きましてね。そのお子さんは途中で亡くなっちゃったですけど、ああ静かになってるねっていったら亡くなってたんですよ。
Q:その子の死体を抱えたままですか?
A:ええ、そうですよ。それで、その大樹院の千葉さんという神官の方のところへ行きまして。まだご子孫がいらっしゃるんじゃあないでしょうかね。そこに御神楽堂がありまして、そこを貸して下さったんです。で、そこへ上がってそこで暮らしました。その時分は学校や何かでどんどん炊き出しがありまして。ああ、はじめはそこに行かないで学校へ行ったんです。船橋小学校ですけど、そこへ行きましてそこでみんな火傷の治療をして、おにぎりだとかご飯だとか食べさせてもらって、それから千葉さんのところへ行ってそこをお借りしたんですよ。それで、うちの母は金庫を持ってまして、お金を持っていたんで、そのお金で船橋の町でみんなの着るものだの手ぬぐいだのを買いましてね。それがとても助かりましたね。母は大火傷をしていまして、ふだんのときでしたら救急車で入院ものですよ。顔はこんなだし、目も片一方見えないほどでしたもんね。でも、その船橋小学校で治療して包帯をまいてくれて。よくあの暑いのに膿みもしないでねえ、やっぱり気がはってるっていうのはすごいもんですよ。
Q:そうすると、2日の夜はもうその船橋の千葉さんですか?
A:いいえ、小岩の梨畑で雨に降られて野宿をしまして、その翌日でしたね、たぶん。ちょっと記憶がはっきりしませんけど。
Q:避難する途中もずいぶん死んだ人が。
A:ええ、それはもう。ビルから顔を出してそのまま死んでる人とか、もうとてもすごいのを見ながら。でも不思議なもんですね、そういうときになると恐くも何ともないんですね。ご飯なんかは歩いてるところで炊き出しをしていまして。おにぎりなんかは、昔は浴衣を着ていましたから、袖のところへごはんを乗せていただいたりして。
Q:それで、千葉さんのところでは何日くらいいたんですか?
A:ずいぶん長くいました。それで、家族の者がわたしどもが被服廠へ逃げたということを知りまして、わたしの父が蝙蝠傘の先で被服廠に行って、遺体をひっくり返したんです、わたしがいないかと思って。昔はお下げにしていて、いちょうみたいにしているのがはやったんですね。だから、みんながそういうあたまをしてるんで見分けがつかないで。それで、わたしの日本橋の実家にわたしと母を殺してしまいましたって謝りに行ったんですけど、絶えず探してましてね。で、わたしが船橋で、この近所に宮沢さんっていう床屋さんがありまして、その方とパッタリ会ったんです。それで、鷲尾さんがここにいるっていうので飛んで来まして、それはもう涙の対面です。神社の綺麗なお座敷へ、みんなドロ足で上がっていっちゃって抱き合って。
Q:お母さんはその頃まだ焼けだだれて大変でしたか?
A:ええ、でもだいぶ良くなりましてね。割にああいうときのはうわっつらの火傷なんでしょうねえ、深くない。
Q:一緒にいた田中さんと谷さんも誰かが探して?
A:ええ。みんなが船橋にいるってことがわかって。みなさんそれぞれに田舎へ行ったんです。わたしどもは田舎がありませんで、ここの育ちでずっとですから。で、やっぱり船橋にうちを借りまして、それでしばらく船橋にいたんですよ。
Q:そうすると、船橋で親子全部で生活すると。そうして、そこにどれくらいいたんですか、元いたところへ戻るまで。
A:バラックを建てましたから、どれくらいいたのかちょっと記憶にないですね。1年くらいいたんじゃないでしょうか、ずいぶん長くいましたよ。なかなかうちが出来ないで。
Q:じゃあ、向こうの学校に通ったわけですか?
A:いえ、学校へは行かなかったですねえ。ですからそんなに長くはなかったんかしらね。
Q:バラックを建てて、ここへ戻って来たと。で、商売を再開するわけですね。すると近所の人も帰って来るわけですね。
A:ええ、そうです。
Q:で、友達の中には死んだ人もいましたか?
A:もうみんな帰って来ない人が多かったですよ、田舎へ行って。あんな東京はイヤダっていって。誰が死んだかはもうわからないんですよ。田舎へ行ったままで帰って来ない人もだいぶいましたねえ。
Q:学校へ行ったら友達は全然いなかったということですね。
A:ええ、そうです。
Q:借家の人なんかはだいぶ田舎へ帰っちゃった人もいたようですけど、持ち家の方はお宅のように自分のところへ帰ってきますよね。近所の顔ぶれが変わっちゃったっていうことですか?
A:田中さんは帰ってきませんで。谷さんはしばらくここにいましたけど、田中さんは田舎へ帰っちゃったんでしょうね。ですから、震災前からっていうと、そこに海苔屋さんがありますね、そこの方とわたしどもと、相模屋さんっていう町会長をやってるお蕎屋さんと。その方は亡くなりましたけど、そんなくらいですね、帰ってらしたのは。
Q:震災のときに、朝鮮人関係の流言蜚語なんて聞きましたか?
A:ええ、ありました。船橋の学校にいましたでしょう、千葉さんへ行くまでに3日くらい船橋の学校で寝泊りしてましたねえ。そのときに、それが一番恐かったんですよ。朝鮮の人が毒を入れるとかで、警察がダ−と取締に来て、イスでひっぱたいたりね。目の前で見ました。それが1人や2人じゃないんです。幾人もの朝鮮の人をやっているのを見ました。
Q:どうして、ああいう流言が広がったんでしょうね。
A:それで、井戸の水を飲んじゃあいけないって。そういう人たちが毒薬を入れたからとかね。そのボ−ンボ−ンというのも、朝鮮の人が爆弾を投げたとかいうことでした。それはデマですね。
Q:小学校4年の頃に仲良かったお友達とかいますか、死んじゃった友達とか。
A:震災前の友達は、震災にあわないうちに越しちゃって。幼なじみで、戸倉の奥の山で椎茸を作ってる方がいまだに椎茸を送ってくれるんですよ。その時分分はお母さんと2人で、お父さんは道楽者で苦労して、わたしの着物をみんな貰って育ったなんていう方が、いまになってすっかり成功なさって。その方がいまだにお便りがあっていろいろ送ったり、送られたりしているんです。そのかたは震災前の幼なじみです。
Q:小学校の同窓会なんてしますか?
A:しますよ。大日向さんという方がいて、その方が同級生なんです、その方は被服廠へは逃げなかったんですけど。建築屋さんなんです。
Q:店の従業員の方はみんな助かって?
A:ええ、みんな助かりまして、ほったて小屋に戻って働いてくれましたねえ。それで、なかなか両親がやり手なもんですから盛大にやってたんですけど、今度は戦災で。しっかり者の父がその前に亡くなりまして、母が中気になって、それで養子の主人がのんびりしていて、子供たち3人にとても苦労をさせちゃったんです。けど、子供も3人大学を出しまして。
Q:大変な経験ですよね。さっきの足袋というのは脱げないということで大事ですね。
A:はい。うちのお嫁さんなんか、いまはスニ−カ−があるから大丈夫よっていうんですけど、スニ−カ−は取れないんですかね、脱げないかと思うんですけど。足袋っていうのは軽いでしょう、だから逃げるにも楽なんですよね。いまはないですね、足袋っていうのは。地下足袋というのが昔ありましたね、ああいうのがいいんですよ。
Q:被服廠へはみんなで相談して行こうというお話だったと思うんですが、いまは震災の避難場所とか決められていますけれど、当時はそういうのはなかったですか?
A:なかったです、全然。地震なんて想像もつかなかったですね。ここらは昔水が出たんです、洪水が。わたしも、船が浮いてるのを見たことを記憶してるんですよ。わたしの本当の両親のところから船で食事を運んでくれたのを、子供のころ覚えているんです。それで、この下に人が歩ける程の土管が入ったとかいう工法をしたんではないでしょうかね。それから出なくなりました。水抜きです。もう雨が降れ ばすぐ水でしたよ、本所・深川っていうのは。ですから、地震なんていうことは頭になかったですね、水の恐さはみなさん知ってましたけど。それで、うちが昔はこういうコンクリのうちじゃあなかったでしょう。みんな平屋が多かったですから、水っていうと2階のあるうちにみんな避難したもんです。でも、いまのようには地震の心配はしませんでしたね。
Q:バラックで生活するときの家財道具なんていうのは、なかなか手に入らないでしょう。鍋とか茶わんくらいなもんですか?電気はどうしたんですか、夜。
A:いえ、わたしが来たときにはもうちゃんと電気は入ってました。いまは水、水っていいますけど、水の不自由はしませんでしたね。そこら中の鉛管から水が吹き出てましたから、年中そこらへんで水は飲んでましたからね。水を魔法ビンに入れてとっておけなんていまはいいますでしょう。でも、その時分はそこら中から吹き出てましたね。
Q:いろいろと貴重なお話をどうもありがとうございました。

続く