聞き手:廣井 脩(東京大学社会情報研究所)


収録インタビュー・リスト
インタビュー1 宮崎勝次氏(1990年7月21日)
インタビュー2 石上敏明氏(1990年7月9日)
インタビュー3 小櫃政男氏(1990年9月3日)
インタビュー4 平山昌次氏(1990年10月15日)
インタビュー5 名和喜代さん(1990年10月3日)
インタビュー6 鷲尾菊江さん(1990年7月27日)
インタビュー7 古谷孝一氏(1990年7月16日)
インタビュー8 小宮寛氏(1990年7月26日)
インタビュー9 田中考二氏(1990年9月5日)
インタビュー10 増井峰雄氏(1990年10月23日)
インタビュー11 平山あささん(1990年7月6日)
インタビュー12 長島ミツ子さん(1990年7月7日)
インタビュー13 関川あい子さん(1990年8月1日)
インタビュー14 大沢千代さん(1990年7月6日)
インタビュー15 関戸惣一郎氏(1990年8月6日)
インタビュー16 喜多村タカさん(1990年8月18日
インタビュー17 山崎喜作氏(1990年8月26日)
インタビュー18 山鹿清一郎氏(1990年10月22日)
インタビュー19 長谷部数子さん(1990年10月12日)
インタビュー20 稲垣正人氏(1990年10月5日)


目次

はじめに

1.被服廠跡地で生き残った人々

2.隅田川べりで生き残った人々

付属資料:インタビュー対象者リスト

○その他のインタビュー記録



はじめに

 1923年9月1日午前11時58分に発生した関東地震(北緯35.2度、東経139.3度、マグニチュード7.9)は、地震後各所から同時多発した火災によって、東京市に壊滅的な被害をもたらした。
 次に掲載するのは、この関東地震を直接体験した人々の手記と、それにもとづいて筆者がここ数年実施してきたインタビューの抄録である。その多くは、当時6歳から20歳前後だった人々の体験であるが、すでに70年近くの月日が経っているにもかかわらず、かれらの記憶は驚くほどはっきりしていた。おそらく、かれらにとって、関東地震は忘れようにも決して忘れられない強烈な体験だったからであろう。
 ここでは紙数の関係から、地震被害がとくにいちじるしかった本所区・深川区の震災体験者、それも本所の陸軍被服廠跡地と隅田川べりで、九死に一生を得た人たち10人に話をかぎりたい。
 その前に、まず関東地震の概要、および陸軍被服廠跡地と隅田川べりにおける被害や避難状況の概要を、以下に記しておく。

(関東地震の被害)

 関東地震の被害をざっとみると、東京市では倒壊家屋は比較的少なかったが、地震の発生したのがちょうど昼食時だったことから、ガス・かまど・七輪などからの出火、あるいは薬局や大学における薬品の落下などが原因となって、市内各所で同時多発火災が起こった。ある記録によれば、東京市内の出火点は163ケ所。このうち、79ケ所はすぐ消し止めたが、残りの84ケ所からの出火が、おりからの強風にあおられて、またたくまに燃え拡がっていった。地震から2時間後の午後2時には、すでに、京橋・日本橋・麹町を中心に、東は本所・深川、北は浅草、西は本郷、南は芝の各区にわたって火災はますます拡がり、それからそれへと火の手を延ばし、黒煙が市の大半を包むようになったという。また、地震によって屋根瓦の剥離した家屋への飛び火も70件を越え、これらの火災が各所で合流し、総計58の火系となって、市内をなめ尽くしたのであった。地震とそれに続く火災によって本所・深川・浅草・神田の各区がほぼ全滅となり、人的被害は、死者・行方不明者合わせて6万8000人にのぼっている。
 このように、関東大震災では地震直後から各地で火災が発生し、しかもそれが急速に燃え拡がったため、麻布・牛込・赤坂・四谷・小石川・本郷など少数の区を除いて、多くの市民は避難することになった。もちろん、出火の数や火災の延焼速度のちがいがあるので、避難開始時期は地域によって異なっていたが、避難民の大半が車に家財道具を満載し、あるいは大きな荷物を肩に背負って火炎を逃れ、避難場所へと向かった。けれども、その多くは何の見通しもなく、ただ右往左往するばかりだった。火に追われてひたすら逃げると、その先にまた火がある。だれかがあっちへ逃げろと叫ぶと、群衆となっていわれるままに駈けだす、という状態が各所でみられた。避難についての確かな情報がないから、ただやみくもに逃げ回るばかりであり、その結果、ただ幸運な人々だけが生き残ったのである。

(被服廠跡地の惨状)

 避難者の多くは最初、なるべく近くの避難地を選んだ。そこで、ちょっとした広場や公園はすべてはち切れんばかりの人となったが、やがてそこも危険となると、人々は、また逃げ出してまた止まりまた逃げ出すといったように、何度も何度も避難地を変え、その結果、荷物を失ったり家族が離れ離れになるなどして、思わぬ悲劇を生じたものも少なくなかったという。
 こうした避難地のうち、もっとも大きな悲劇に見舞われたのは、本所区横網町の陸軍被服廠跡地であった。ここには、本所・深川方面から火に追われて3万数千人の人々が押し寄せ、地震から3時間が経過した午後3時頃には、2万坪以上ある広場が避難者でいっぱいになった。しかし周囲に延焼し、四方から火が襲ったため、午後4時頃には、広場に猛烈な火災旋風が発生した。また、避難者が運び込んだ膨大な荷物に飛び火し、それが人々の衣服や髪の毛に燃え移って、まさに生き地獄のようなありさまになってしまった。火災は、午後8時ないし9時頃にはようやくおさまったが、そのときには死者は3万8千を越え、一方、生存者はわずか200名にすぎなかったのである。
 東京朝日新聞社編集の『関東大震災記』によれば、本所区は、地震とともに若宮町と森下町から発火し、さらに向島も火災となって、たちまち火の海に化したという。そのため、避難民は火に追われて電車路を避難し、最後には被服廠跡地に集まることになった。また、深川区民も同様に、追いつめられて被服廠跡地に集まったので、広場は何万とも数知れぬ避難民と荷物で充満してしまった。
そのうち、午後4時頃になると、猛火のためにすさまじい旋風が被服廠内に巻き起こった。旋風は、まるで悪魔のようなうなりをたてて避難民に襲いかかり、木材も車も家財も人も火のかたまりとなって、宙に舞い飛んだ。また大火焔は人と荷物をひとなめにし、断末鬼の叫びが、閧の声のようになって廠内に響き渡った。しかし、こんな場合にも生きようとする人間の努力は恐ろしい。場内の中央部にあったわずかばかりの水溜りの中に全身を浸し、その後で蒲団をかぶったり、あるいは折り重なった人々の下敷きになって、九死に一生を得たものが200人ばかりいたということである。この恐ろしい旋風と火災は、夜の8時頃になってようやく鎮静したが、そのあとには、3万2千人以上の人間が、累々たる死体となって残されたのであった。 

(隅田川の惨状)

 一方、本所・深川の人々の一部には、被服廠跡地に行かず、隅田川べりに避難した人もいた。地震火災時の隅田川べりの状況については比較的くわしい体験記が残っているので、それを以下に紹介しておこう。筆者は、当時厩橋税務署に勤務していた一官吏である。
 おそらく1日の午後3時頃であろう。かれは火災に追われて、隅田川の舟に飛び乗った。かれが川の中から蔵前の方を見ると、浅草から日本橋方面へかけて、空も地面もただ火と煙だけであった。両国橋を逃げ渡る人々は、ただ真っ黒いかたまりが長く続いて、うごめいているようにしかみえなかった。しかし、本所方面の火事はまだ大きくなかったので、かれの乗った舟は安田邸の前につけようとした。そのとき、安田邸の川岸を逃げていく人波はまったく猛烈で、着のみ着のままで走る人、荷物を背負えるだけ背負ってあえぎあえぎ走る人、子供を真中に夫婦で引きずり走る人、子供を両脇にかかえて走る人、老人や病人を背負つて走る人、けつまずいて後からくる人に踏みにじられる人、みな真っ青な顔をして口々に何事か大声で叫んでいるその光景は、形容の言葉もないほどだった。
 かれがやっとの思いで岸にあがったとき、4、5匹の暴れ馬が人々を蹴倒して、猛烈な勢いで通り過ぎ、何人かがこの数匹の馬に蹴られて死んだ。そのうちに、火は本所全部に回ったのか、いったん向島方面へ逃げた人々が、急にワァッと叫びながら逆戻りして来た。そして、安田邸の前で、両国方面から逃げて来る群集とみるみるうちに大衝突をして、何ともいえない大混乱となった。男も女も、力の弱い者はたいてい踏み倒され、踏みにじられ、川に落ちるものは数知れず、その落ちた人々はみな川下にどんどん流されていった。水の中でもがきながら、助けてくれ−と絶叫するようすは、地獄そのままであった。そのうち、これらの人々は、誰言うとなく「被服廠へ、被服廠へ」と叫び出したので、その多くは安田邸の横を折れて、なだれをうちながら、引き潮のように被服廠跡へと走って行った。
 ここで一緒に走って行けば、かれもまた猛火の犠牲になったであろう。しかしこの官吏は、まだじっと安田邸の門の下にとどまっていた。そして、ふと川のなかが安全かもしれんと思いたち、川の方へ走り出した。このときまで、群集はただ陸地の安全な所へと目指していたので、川のなかは案外に混雑していなかった。背が立つくらいの深さの所は、かなりの人がひしめき合っていたが、かれは、その人たちを押し分けて、川の真中へと泳ぎ出し、舟で避難していた人々のなかへ割り込んだのである。
 かれが舟のなかに身をおちつけた頃から、被服廠方面の火勢は急に猛烈となり、烈風のような火のために、川のなかにいてさえ耐え難くなった。今まで岸にいた人々が、うろたえたように助けを呼んで叫んでいた。また、被服廠方面からも人の叫び声が、火の音、風の音、物の焼ける音に混じって、まるで大嵐のように聞こえてくる。隅田川に押し寄せる火の嵐はいっそう猛烈になり、両岸から直径20〜30センチにもなる火の粉が、雨の降るよりも激しく落下してくる。舟に乗っていた男も女も、もはや耐えきれず、身体は川の水の中に浸し、手は舟のへりをつかまえて、熱くなれば水の中にもぐりもぐりしている。火の粉ばかりか、真赤になつたトタン板や火になつた電柱や戸板なども、ヒユウヒユウと落下し、頭や顔を打たれ、あっという間に手を離して、どんどん流される人々も数知れなかった。川の真中にいながら水は少しも冷くなく、まるでお湯に入っているように熱かったという。
 両岸では、女子供が髪や着物を火に燃えつかれて、泣き叫びながらバタリバタリ倒れていく。真赤な火を背景にして、火焔に包まれながら倒れる黒い人影は、ちょうど影絵を見るようであった。川岸につかまつて水の中に浸っていた人も、川岸近くの舟に乗っていた人も、すでに焼け死に、ついに舟は跡かたもなく焼けて流されてしまった。かれの舟でも、餓えと疲れのためにだんだん気が遠くなり、知らず知らずのうちに手を離して、一人また一人と流され、最初は20〜30人もいたのに、いまはわずか2、3人になってしまった。かれもまた、うつらうつらと夢心地になりかけたが、そのたびに隣の人に顔をピシヤリと打たれてハツと気がつくありさまだった。
 どのくらい時間がたっただろうか。やがて両岸の火勢が衰え、今までにない涼しい風が吹き出した。かれをふくめて生き残った人々は急に元気づき、蔵前の方に舟をつけた。そして、かれが岸にのぼってみると、あたり一面焼け野原。もはや、どこがどこやら少しも見当がつかなくなっていたという。


1.被服廠跡地で生き残った人々

1ー1.群衆の頭上をなめる火 

 まず、前節の2でふれた陸軍被服廠跡地で生き残った人たちから紹介していこう。最初は、宮崎勝次さんの体験。宮崎氏は当時9歳だったが、本所区南二葉町で地震に遭遇した。地震後、火災の煙ときな臭いにおいが漂ってきたころ、一家そろって被服廠跡地に避難し、そのうちに妹と2人だけになってしまった。荒れ狂う火災旋風のなかをその妹さんと無我夢中で逃げ回り、ふと気がついたときには火災がおさまっていたという。

◎手記

「群衆の頭上をなめる火  宮崎 勝次(本所区南二葉町)
 あの日は蒸風呂のような酷暑であった。私は工場の隅でブランコに乗っていた。突然、左右上下に揺れだして止まらなくなった。「地震だ、モ−タ−を止めろ」と叫ぶ声が飛んだ。ミシミシと大きく揺れ、鋭く怒ったように揺れる。棚から物が落ちてくる、電燈のカサが目茶目茶に揺れ天井にぶつかりガラスの破片がすっ飛ぶ。梁と柱が悲鳴をあげて離れそうになる。近くの家の倒れる音が地響きをたて、砂じんが舞い込んでくる。工場の屋根に大きな物干場があり、父母や兄姉、従業員などが集っていた。父は四方を眺め、火事場の数を見て「ここまでは燃えてこないだろう」と云っていた。父の指図で炊き出しを始め、握り飯を頬張りながら火事の様子を眺めていたが、若宮町の方角で一時衰えていた火勢が急に盛り返し、煙が私達の頭上まで拡がってきてキナ臭い匂いが漂い薄暗くなり、パラパラと燃えかすが落ちてきた。「被服廠に行こう」と父が云い、足袋を集めさせて一同に履かせた。父の機転で足袋を履いたお蔭で助かったと感謝している。道路が狭く、路地が入り込んでいてなかなか表通りに出られない状態であった。血だらけの負傷者を背負う人、気が狂ったように泣き叫ぶ人、電車が立往 生し、架線が垂れ下がり、水道管が破裂して被服廠前は水が溢れ、溝との境が見えない。既に広場は人と荷物でごったがえしていた。荷馬車を引き入れ口論している馬方もいた。        
 あたりが急に薄暗くなってきた。四方から煙が空を覆い太陽を隠すように重なり合った時、突然、風が吹き始め忽ち強風となり、渦を巻いて砂じんを吹き付けた。顔や手足が痛い。眼も開けられず、立っても居られず、みな毛布や布団を頭から被った。いつの間にか砂じんが火の粉と変り、忽ち火の渦となり火焔となって人や荷物に燃え移って荒れ狂う。ゴ−ッと火焔が空にのびていくと、大八車や箪笥や人間が舞い上る。馬が人垣のなかで暴れ、火だるまになった人達がバタバタと倒れる。              
 私は妹の手を引き、無我夢中でどこをどう歩いたのか記憶がない。妹が熱い熱いと云うので私の上衣を脱ぎ、頭にかぶせると忽ち誰かに奪われてしまった。人波に押されて下敷になる人、無理矢理に押されて火焔のなかに倒される人もいた。幾時間が過ぎて火勢が衰え暗さが増してきたとき、坊やと呼ばれたような気がして、声の方を見ると、母が妹を抱いて立っているのが見えた。今でもはっきり記憶に残っているが、母の姿が白く浮きでていて他のものは何も見えなかった。私と妹は夢中で死体を踏み越えて駆け寄った。母は「助からないときは、一緒に死のう」と云ったが私はもう大丈夫だと母を慰めた。安全で座れる場所を探そうと安田庭園の近くまで死体を除けながら母の手を引いて歩いたが座る場所がなく、しかたなく3、4人の黒い死体を引っぱって場所をつくった。手が炭を塗ったように黒くなり、あとあとまで気になった。やがて何処からとなく「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」と呟きが聞こえ、その呟きが合唱のように一斉におきてあがった。暗闇が一枚一枚ベ−ルをはがすようにあたりが明るくなるとともに人影が動き始め、「誰誰や−い」と家族を探す声が腹を切ったように始ま った」  
                   

◎インタビュー1.宮崎 勝次氏(1990年7月21日)

A:あの当時は長屋がいっぱいありまして、それをみんな壊してそこを買収して工場を建てたのです、私の家は。工場といっても百坪くらいの工場ですが。両側の右側に住まいがありまして、寄宿舎を造りまして、相当手広くやってました。
Q:具体的にはどんなものですか?。
A:錠前がございますね、ライオン印のマ−クの錠前を作っておりました。それが日本一でして、ライオン錠の宮崎といえば有名なものでした。そのほかにいろいろ雑貨を作っておりました。当時、電気アイロンなんてなかったのですが、電気アイロンで蒸気が出るものを作ってデパ−トへ出して売れなかった、なんてこともありました。
Q:震災当時、ご家族は何人でしたか?。
A:家族は、姉が2人、兄が1人、妹が当時は1人です。
Q:では、5人兄弟ですね。
A:いえ、その後また2人生まれています。8人いまして、私が9つで、私が助けた妹が7つですから。それとお父さんとお母さん。
Q:震災のその日の出来事を聞かせてください。あの日は9月1日で。
A:暑かったです。ちょうど昨日、一昨日みたいな暑さです。鎌倉から避暑をして帰りまして、帰って来たのが27、28日くらいで、すぐ地震にぶつかりまして。
Q:そうすると、学校からお帰りになって、始業式だったということですね。
A:校舎の隅にあるブランコにのって遊んでいました。そのとき地震が来て、それがグルグル回っておりられなくなりました。すごかったです。棚にあったものがみんな落ちてきて、電気の傘など回りまして。工場は二棟になっていまして、真ん中に太い梁が通っていまして、その梁と柱が剥がれそうになりました。それをどうなるのかとしがみついて見ていました。
Q:その工場は倒れなかったですか?。
A:それが、大きい機械がありましたので、グ−と来たときに機械が支えたんです。ですから、工場は壊れなかったです。それで二階へ行く階段がちょうど縄をよったようによじれてしまいました。それで上がって行くのが大変で、あの厚い板がよじれてしまうんです。それでやっと上の座敷に上がりましたら、畳が波打っているのです。タンスなどは倒れなかったんですが、工場の上の大きな物干し場があったので、そこへ上がりまして、いつの間にか兄弟や親父など集まってようすを見ていたわけです。地震はおさまったんですが、今度は火があちこちから出て来ました。
Q:地震がおさまって一時間くらいですか?
A:そんなにありません。間もなくです。それで、うちの親父が火事を数えました。何箇所かと。それで、何箇所あるけれど、隅田川があるから向こうへは火は行かないだろうと、それで本所に被服廠跡があるわけです。それで皆そう思ったんですね、被服廠跡へ行けばいいと。それで荷物を持って皆そこへ行っちゃったわけですね。それで、本所の厩橋の先に若宮町というのがありまして、そこの火が猛烈でザ−と黒い煙がきて上からパラパラ落ちてくるんです。
Q:若宮町と南二葉町というのは相当近いんですか?
A:いえ、そう近くはありません。石原通りを越して向こうですから。それで、そのとき親父が数えていたんですが、その火が頭の上をワ−と煙がきまして、上からパラパラと落ちてくるんです。これは危ないから被服廠へ行こうと、それで行ったんです。そこへ集まった若い人、徒弟ですね、そういう人がタンスや何かを持って行ったわけです。
Q:お宅から被服廠まで距離はどのくらいありましたか。
A:そうですね、電車通りを越すだけですから、50ー60メ−トルくらいです。
Q:被服廠に避難し始めるのは、すでに火がかなりあって、もう逃げないといけない状態ですか?
A:いえ。そのときは火は全然来ないのです。ただ、当時は路地が多くて道路が狭いんです。ですから、 一軒家が壊れるともう出られなくなりますから。それで、通りに出たときには、家が上階から壊れたりして血だらけになったケガ人で、もう右往左往です。やっと被服廠に入るときに、あの前に一間くらいのドブがあるんで、ふだんはトタンで囲ってあるんですが、それを倒したり壊したりして皆入って行ったんです。皆、荷物を持っていますから、まさか火が来るとは思わなかったんでしょう。そのとき、すでに朝鮮人の話が出ていまして、噂で朝鮮人が火を付けたとか、品川が洪水でいっぱいで、間もなくここにも水が来るとかという、流言蜚語が盛んでした。
Q:お父さんが被服廠に行こうといったのは、地震から1時間から1時間半くらいのときですか?
A:うちの親父は、一番最後に入ったらしいのですが、その時は火に追いかけられてやっと入ったそうです。私たちは先に入りました。おふくろと姉が2人と兄と私と妹と、赤ん坊がおりまして、母親が抱いていました。皆を逃がして最後を見届けてから親父は入ったんです。それで皆、中に荷物をびっしり置いてまして、まさか火が来ると思わないから、全部の人がタバコを吸ったりして、悠々としていたんです。家財道具の横に座ったりして、家財道具と人でいっぱいでした。
Q:お宅も家財道具を持って行きましたか?
A:みんな持って行きました。タンスや布団までありました。よく雑誌には4時頃から火が出たとなっていますが、もっと前からだと思います。というのは、見ていますと太陽がここらへんにあるんです。真夏ですから、私は2時頃ではないかと思います。そこへ黒い煙がワ−と来たんです。そしたら太陽が真っ赤になりました。ああ、太陽が真っ赤になったといっているうちに、ウワ−と風が吹いて来たんです。その風が来たら、痛くていられないんです。
Q:砂塵ですね。
A:はい、まだ火は来ないんですが。で、みんなタンスの影に隠れたり、毛布を被ったりしているんです。私も番頭の後をついて行って、左側に郵便局を造っていたんでポストがずっと並んでいて、そこへ入ろうとしても、もう人でいっぱいでした。やっと入れてもらったんですが、下に窓があってそこから砂が入ってきて、いられなくて飛び出してきました。そして、親父のいるところはそこだからとやっとたどり着いたら、そのときぼつぼつ火が来る頃でした。それで、妹がまごまごしていたので、七つの妹の手を引いて逃げました。ともかくアッという間でした。パ−ッとすごい火でした、全部火なんです。それで荷物に火がついて、まわりは全部大人です。子供はあまりいませんでしたから、ただ押されて歩いているだけです。でも子供だったから良かったのかもしれません。妹が熱い熱いというもんですから、上着をを脱いで上にかぶせてやりました。かぶせたらアッという間になくなってしまいました。まわりは 皆大人ですから、アッという間に持って行かれてなくなってしまいました。それで、そんなに熱いのかと見ましたら、全部火なんです。そのとき、はじめて熱いと思いました。それから は夢中でどうなったのかわからず、押され押されて行くだけなんです。上から、大八車は落ちてくるし、タンスや布団が落ちてきました。それで、どこに行っていいのかわからず、押されて右往左往しているだけで、火がどんどん来ますからアッという間に体に火がついて。どこを見ても火ですから。わたしは子供で小さかったから助かったのだと思うんですが、踏みつぶされなかったし、どういうわけか。で、ずっと手をつないで逃げていました。その感触はいまは覚えていませんが、しまいまで押さえていたのは事実らしいです。朝は手があかなかったですから。それで、わたしがよく覚えているのは、あそこに学校を造ったり郵便局を造ったりするのでトロッコがあったのです。そこを越そうと思っても越せないんです、火と風で。越したからどうということはないんですが、押されていきますから、押されて転んじゃうと死んでしまいますから、それはもう凄かったですから。それで、やっとそこを越したことを覚えています。あとは、どうなったのかは全然覚えていません。熱いという記憶もありませんね。ただ右往左往していただけでした。そして、偶然に、いきなりひっぱたかれたのです。パ−ンと ひっぱたかれてハッと思ったら、前に素裸のどこかのおじさんが、体中傷だらけ火傷だらけの人があぐらをかいて座っている、そこを私が踏んでしまったんですね。だからきっと、コノヤロウとひっぱたかれたんだと思います。それで、気が付いたんです。
Q:そのおじさんは、もう動けなくなっていたんですか?。
A:おそらく死んでしまったでしょう、火傷で。もうまわりは火傷と死体でいっぱいでしたから。それで結局、その人にひっぱたかれて気がついて、アッと思ったら妹がここにいて。そのとき、まわりは何か暗いのです。暗いというのは、ちょうど火がおさまった頃で、電車通りを見ますと、火がそちらから来て、家が燃えて焼け落ちると火が消えると思ってましたから、それが焼け落ちてそれで助かったなと思いました。何時頃かはわかりません。夏ですが、暗かったんです。ともかく暗くて、真っ黒なんです、一面が。それで、ずっと妹と立っていて、下で助けてと女の子の声がするんです、みんなその上に乗っているのです。助けてあげればいいのにと思ってもこちらは子供ですから。そんな記憶があります。
Q:そうしたら、2時頃から夜になるまで夢中で走り回ったのですね。
A:はい、そういうことです。それでわたしも妹も火傷一つしないのです。手も出て半ズボンだったんですが。それで、明るくなって見ますとすごい人なんです。真っ黒けの死体がずっとありまして。翌日の 2日ですね。それで助かったと思ったら、あちこちで南無妙法蓮華経とか、南無阿弥陀仏などの声が聞こえて。それと、誰か人を探す声が聞こえて、でもあまりいませんでしたよ。何人か人がいましたが、そういう人は朝被服廠に入って来た人だったんですね。で、わたしたちはそのとき気がついてからあたりを見ますと、そこに電線を巻くコイルがあり、それが燃えていました。その向こうにおふくろが立っているんです。おふくろが妹を抱いて、わたしのほうを見て、坊や!と言われてハッと思い、おふくろがいると思いました。そして、そこに行こうと思っても行けないんです、何か下に黒いものがいっぱいあって。それでもやっとおふくろのところに行きました。その頃は火はほとんどおさまっていた頃でした。姉2人は安田公園という、いまは本所の公会堂になっていますが、その中に石橋があり、その下に2人で入って助かったんです。そこをちょっと過ぎると黒焦げの死体が一杯なんです から、運ですね。家は全員助かりました。近所はほとん全滅で、どこに行っても木の名札が立っていまして、誰誰、一家全滅となっていました。おふくろは、2番目の妹を抱いて、赤ん坊ですから。赤ん坊を背中に背負った人は、みんな赤ん坊が死んでしまいました。抱えたのは助かったのです。それに母親はケガもしないし、どうしたかわかりませんがとにかく助かったのです。
Q:お父さんも、最後には被服廠に入ったのですか?
A:はい。被服廠に最後に入ったとき水道管が破裂しまして、水がずっと上がったんです。そこは、荷物が濡れるので人が置かなかったので、そこへ飛び込んだのです。なにか、膝まで水があったようです。 そこへしゃがみ込んで、いま死ぬかいま死ぬかと思っていたといっていました。そのへんでもだいぶ死 んでいます。水が蒸発しますから。死んだ方というのは生きたまま火をつけられますから、みんなこうやって死んでます。みんな脱糞して死んでます、全部そうです。今度の空襲の時でも死んだ方は、みんなこうやって死んでます。ちょっと違ってます、空襲の時は、苦しくないんじゃないですか。ガスか何かで窒息して。ともかく真っ黒焦げの死体ですから、男も女もわかりません。山になっていました。何重にも重なって。あんなに狭いところで4万人死んでますから。
Q:重なって死んでいるというのはどういうことなんでしょうね?
A:結局、一人が転ぶ、そこへまた転ぶ、火がついていますから。とくに、線路のところは折り重なって死んでました。トロッコのところです。それで、下にいた人で助かった人もいるのです。転んで気を失ったんですね、そこへ人が乗って、上の人は真っ黒焦げになってしまった。それが、朝起きたら褌一つになってしまって、背中は全部ひっかき傷だらけで。上に乗った人が苦しいからでしょう。でも助かりました。
Q:それで1日の夜ですが、その夜はお母さんと被服廠のあたりをさまよっていたんですか?
A:母と会ったのは、明け方です。まだ暗かったです。火が燃えていたので見えたわけです。おふくろが立っているのがみえました。まわりは暗くて、そこだけ火が燃えていて、ちょうど見えたのです。観音さまのようでした。
Q:さっき、被服廠で生き残った人たちが、南無妙法蓮華経とかいっていた話がありましたが。
A:そうですね、南無妙法蓮華経、南無阿弥陀仏とかあちこちで聞こえましたが、それからしばらくしてから、人を探す声がしました。それほどワ−ワ−いうほどではありませんでした。それで、私たちがどうして助かったかというと、一つわけがあるんです。父が足袋を履かせてくれたんです。みんな集まって被服廠へ行くことになって、タンスから足袋を持って来まして、みんなに足袋を履かせたのです。足袋を履いたおかげで助かったんです、あれは脱げませんから。靴だとすぐ脱げちゃうんです。足袋のおかげで下に何があっても飛んで歩けたのです。裸足だったら熱いしケガもするし、足袋のおかげです。
Q:お父さんは、なぜ足袋を履かせたんでしょう?お幾つでしたか?
A:どういうわけかはわかりません。わたしと30才違いですから、41才ですか。まだ血気盛んです。工場もそこと、ほかに鋳物の工場とか2〜3持っていました。それも、全部焼けてしまいました。父が一代で造ったものです。結局、第一次世界大戦で儲けたらしいです。三ノ輪に伸鉄工場ありまして、これも親父が山形の金持ちから頼まれて共同で造ったものですが、鉄を伸ばす方の伸鉄です。そこへ4日の日から行って、一時住みました。ですから、震災があったときには高いところへ登って、どこへ避難するかをよく見て、火のないところへ避難するのが一番良いと思います。それと足袋を履くことです。ですから、何も足をケガしないし、ただ困ったのは目が開かないんです、埃が全部入って。目をあけていると煙で痛くなって、とにかく目が開けられない。ともかく凄いものでした、ケガ人だらけで。でも、わたしと妹はケガ一つしません。姉と親父は少しケガしたようでした。
Q:この南二葉町で、一家全員が助かったというのはほとんどないんではないですか?
A:はい、近所では家だけです。まわりの家も全部壊れてしまいました。被服廠へ行くまでのあいだも、壊れた家がだいぶありました。当時は蔵がだいぶありました。石蔵ですが、そういうのはだいたい助かっていました。木造家屋は全部壊れました。それに道路が狭いので、一軒壊れるともう出られません。後で聞いた話ですが、家の近所に大工がおりまして、そこの息子から聞いたのですが、砂町にお稲荷さんがあって、そこに大きな銀杏の木があるのですが、気が付いたらその息子はその木に引っ掛かっていたというのです。被服廠から飛ばされたのでしょうか。それで下着が何もなくなっていて、体中傷だらけでパンツか褌か知りませんが、それだけしかなかったそうです。あとで、その息子がこんな傷だらけだといってましたので、本当の話だと思いますが。20幾つくらいの人ですが、そんなのは珍しいです。
Q:そのときは、凄い旋風で飛ばされましたか?
A:はい、わたしの兄は一緒にいたところから飛ばされまして、安田の池に落とされました。小さいときから親父が泳ぎを教えたものですから、落とされて端まで泳いで来て、そこから両国の駅まで行きまして、いまはもうないと思いますが、あそこに大きな堀がありまして、そこに御蔵橋という橋があり、その橋が落ちて向こうに行けなくて、そこから犬カキで向こうの岸まで行こうとしても、落ちた人が助けてくれといって足を掴むのだそうです。それで伝馬船につかまって上がろうと思っても、助けてくれと掴まれてなかなか上がれず、それでやっと駅に行って、そのときは駅は焼けなかったので、両国から浅草の観音様まで逃げて行ったということでした。その兄とは4日になって会えました。死んだものと思っていました。2日の日に小松川まで、わたしたちゾロゾロ歩いて行ったのですが、向こうに知り合いがあり、そこに行ってそこの離れを借りて、ケガ人も集まりました。その夜には朝鮮人騒ぎで、刀を持ったり竹やりを持ったり、寝ていられずそれは大変でした。そのあいだに地震がありまして、ですから庭に蚊帳を吊って寝たような始末でした。どこへ行っても朝鮮人騒ぎで、あまりいいた くありませんが、被服廠の中でも殺されました。2日の朝にはもう、朝鮮人とわかると殺されるのです。凄かったです。それで、朝起きて家族みんな集まってやっと助かったと思って、わたしたちが最初にいたところはどこだろうと行ったわけですが、そこにブロンズの置物のいいのがあったんですが、それは焼けてしまって切れていました。そばに手提げ金庫だとかいっぱい落ちていて、銀貨はみんなくっついてました。そういうのがいっぱいありました。そういうのを、助かった人は見ているだけですが、後から来た人が拾って行きました。それで銅のヤカンの中に入れた穴あき銭がいっぱい落ちていて、当時そういうのを集めた人がいたのでしょう、それを持って逃げたんでしょう、そういうのがいっぱい落ちてました。それでわたしたちの親もそうでしたが、銀貨が目の前にいっぱいくっついて落ちていても、欲も何もなく拾ったりしません。それで、安田公園へやって来ますと、行く途中で不思議ですが、こっちは全部黒焦げの死体でしょう。生まれたばかりの赤ん坊が、20人くらい並んで寝ているのです。なんであんなところに赤ん坊が寝ているのかと思ってますと、どこかの人が口に水をいれてや ると、目をパチパチとして、そして死んでしまうのです。その子たちはたいしてケガもしていないのですが、なんであそこに並んでいたのか不思議です。みんな死んでしまいました。それを見て安田公園に入りますと、木は全部真っ黒焦げで、井戸の中にも池の中にも死体がいっぱいでした。そこへ氷を持って来る男がいて、卵など食べているのです。用心のいい人だと見ていたんですが、それは両国の駅から焼けた卵をもって来て食べていたのです。ザラメなども食べていました。それは被服廠に行って助かった人ではなくて、朝よそから入って来た人だと思います。というのは、助かったと思ってもそんな欲なんかでるわけがなくて、どこかの立派な背広を着た年配の人がわたしくらいの子供の手を引っぱって来たのですが、そこでバナナを食べている人がいて、昔の金持ちはウオルサムの両蓋の時計を持っていて、その人がそれを出してバナナ一本と交換してました。ですから、助かった人というのは欲なんかあるわけないです。もう、助かっただけでうれしくて、ホッとした気持ちでいますから。時計などいらなくてバナナ一本のほうが大事なんです。
Q:被服廠で助かった人の話では、助かると万歳をやるといいますがどうでしたか?  
A:いいえ、万歳は聞かなかったですね。どこかではあったかもしれませんが、とにかく覚えているのは、南無妙法蓮華経と南無阿弥陀仏という声が聞こえました。
Q:小松川に行って、昼間被服廠の跡へ行ったんですか。
A:いいえ、4日の日に出て来たんです。4日の日に小松川を出まして、三ノ輪の工場が助かっているかもしれないから行ってみようというので、親父とわたしで先に出て行ったんです。焼け跡を見ようと行くと、そこにわたしの家から兵隊に行った男が軍服で向こうから来て、やはり心配で訪ねてくれたんです。助かって良かったと話をしていたら、向こうから子供がかけて来て、それが私の兄でした。親子が対面しまして、それで三ノ輪の工場へ行きましたら焼けないでありました。そこでは朝鮮人を使っていまして、当時は朝鮮人が捕まると殺されてしまいますから、警察に保護されていたようでして、それを貰い下げて来ました。年は15、6ですね。日本語は片言でした。そこの三ノ輪の工場で、震災のあとはしばらく暮らしました。私の親父はすぐ山形へ飛んでいって材木を買って来まして、一時は材木屋を若い者にやらせていました。そして工場をどんどん建てました。あそこにいたのはあまり長くないです。
Q:またもとの所へ戻って、ライオンの錠前を造ったのですね。
A:はい。それと、鉄を切るノコを日本で初めて作りました。それと、獣をとる捕獣器というトラップです、それも日本で初めて作りました。そのおかげで、金融恐慌とか不景気のときは全然ありませんでした、忙しくて。わたしの家はどういうわけか金には困りませんでした。いつも裕福でいたらしいんです。ですから、わたしが4年で震災にあって、6年のときには福島にスキ−に行ってましたから。
Q:震災にあって、また小学校へ行くのは10月か11月頃ですか?
A:小学校を建てるのは早かったです、バラックでしたが。4年生の翌年には行っていたと思います。クラスの友だちなんかもあまりいませんでした。よそから入って来た連中とか、転校してきたのがいたりして。昔の友だちなど一人もいませんでした。二葉小学校です。それが、また空襲で焼けました。あの空襲もすごかったです。ですからあの一帯は関東大震災と3月の空襲のときと、2回焼けているわけです。わたしの家も2回焼けています。
Q:わたしたちが先日話を聞いたIさんとは同級生ですか?ご存じありませんか、南二葉町33です。
A:いえ、知りません。南二葉町というところは、大日本インキというのがありますね、あれが川村インキといって町工場でやっていたのです。工場地帯です。いまは大きくなった会田エンジニアリングというのがありますが、あれも裏長屋でやっていました。ですからわたしの家の親父は、町会長になってくれ と言われてもいつも、学問がないからいやだいやだと言ってました。
Q:で、こちらにはいつ宮崎さんはお移りになられましたか?
A:ここへは、終戦後です。宇都宮に戦時中仕事でいまして、25年の春にこちらに買って越してきました。本所の南二葉町の方は相続税で売ったらしいです。残っているところに妹が2人、弟が1人住んでいます。元のはなくなってしまいました。戦災も南二葉町で受けたので、2度焼けています。不思議なことにこの安田公園がありますね、この通りを越して行くと隅田川に出るのですが、安田公園の左側の一部が全然焼けていないのです、震災では。どういうわけでしょう、いまも残ってますよ。ですからそこの中に入った人はおそらく助かったのでしょう。表通りに沿って、7〜8軒あるところは焼けていません。朝不思議に思いました、そこだけ残っているので。あの火事はいやですね。全部火が当たるのですから、熱いのかなと思ったら熱かったというふうで、それ以外熱いということは覚えていません。子供だから、大人のあいだで守られていたのでしょうが、でもふみ潰されたらおしまいですね。ともかく、 あの火は凄いです。へっついの中へ入ったようなものです。上から、大八車だとかタンスなどが落ちて来るんですから。焼けトタンは、ピュ−と音をたてて飛んで来るのです。それにぶ つかったら、首に穴があいちゃいます。あそこに学校を建てるのでクレ−ンが立っていましたが、あれが倒れたらどうなるのかと思いました。それがやっぱり倒れていました。結局、倒れた下にいた人は 白骨になってました。人間の心理として、地面よりちょっと低いとみんなそこに入るんですが、そういうところはとくにひどかったです。とにかく男も女も真っ黒ですから、何もわかりませんからね。ただ不思議に思ったことは、朝明るくなって母親と一緒にいてまわりは黒い死体でいっぱいで、見たら真裸で女の人が寝ているのです、女の裸を見たのは子供ですから初めてで、オヤと思ったのですが、家の母親が気の毒だからと何か布をかけてやりましたが、あの朝は風がありまして飛んでいっちゃうんです。着るものでもあればみんな持っていっちゃいますから、しかたなくトタンをかぶせてやりました。それが、真っ黒な死体の中で真っ白な女の人が裸で寝ているのですから、どういうわけでしょう。顔はかぶって死んでいるのでわかりませんが、若い娘でした。あれは剥ぎ取られたのでしょうか、不思議でした。
Q:本当に人生の無常ですね。被服廠に入ったときは、みんな助かったと悠々としていましたか?
A:はい。もうタバコを吸ったりしてました。そのあと砂煙がワ−ッと来て、タンスや布団の影にみんなよけていましたが、そのうち、いっせいに火がつきました。それで全部真っ赤になり、一瞬に荷物の中で焼かれたようなものでした。荷物がなければ良かったと思います。いまは荷物など持って逃げませんが、昔はタタミまで持って置いてありましたから。どの家も全部そうで、馬力の親方などは馬をつれて被服廠に入ってきましたから。それが、火で暴れましたが全部火で焼かれました。あの頃はみんな物を 大事にしてましたから。
Q:南二葉町に再び戻って来て、周囲の人はほとんど全滅でしたか?
A:はい、たいてい貸家に住んでいますから、もう帰ってきません。もう死んでしまってだれもいませんから。震災前に仲良くしていた友だちなどほとんどいません。兵隊が来て通るような板を置いてまして、そこを渡っていました。ともかく死体がいっぱいで、男は下を向いて死んでいるのです、女の人は上を向いて死んでいるのです。それで、腐ってしまうのです。体からガスが出てほっぺたや体は赤茶けてしまって。それがもういっぱいでした。板張のところを渡るときでも、いやな匂いで一杯でした。あの頃では何が落ちていても、拾う気にはなりませんから。よそから来た人がいろんな物を持って行ってしまうので、被服廠の中でも捕まった人もいます。わたしが朝おふくろといて、明るくなってくるとガサガサと音がするんです。死体がいっぱいあるところですが、何をやっているのかと思うと、手提げ金庫を壊しているのです。それを見ていたら、にらまれました。服装はちゃんとしてましたから、きっと外から入って来た人でしょう。指輪なども、乾燥してますから、指をポキンと折って取って行く人もいました。それを見ていました。
Q:震災の後ですが、町が変わったというか、道が広くなったりしましたか?
A:いえ、道は広くはなりませんでした。ただ、通りがあって横丁にはいると、本所は昔ドブがあったんです、ご存じですか?両国の青物市場がありまして、そこの前がずっと広い通りになっていたんです。いまも広い通りがありますが、昔のままです。そこにドブが通っていて、幅が2間くらいのものですが、木の橋が渡っていまして一年中水が流れ込んでいつも汚くて、勝海舟などもそこに住んでいたそうですが、その横丁に本所区役所、いまの墨田区役所があって、それが現在のところへ越したのですが、そこが小さい公園になっています。工場はそのあたりでは、わたしのところと前にはアルミニウム屋の工場がありまして、いまは理研なんとかになっていますが、それからトクホンってありますね、あれが裏長屋でやってました。いまは大きくなってますが、女工さんが4〜5人いて、通ると臭いななんて言ってました。それと、会田エンジニアリングも裏長屋でプレスか何かをつくっていました。さっきお話した川村インキは、いまは大日本インキです。そういったのがあちこちにありました。それで結局、そこを壊して建てたのです。震災後に戻って来ました。新興工場地帯で、金持ちが多かった んです。それと、落語家とかの芸人が多かったです。相撲の部屋もありました。家のそばはたしか伊勢が浜ですか、子供の頃のぞいてますとザン切り頭がやってまして、しばらくすると今度はチョンマゲを結ったのが出てきて、ザンギリがコロコロとチョンマゲにやられて、しばらくすると今度は立派なチョンマゲが出てきて、ポンポンやられてました。当時はうち風呂がありませんから、銭湯へ行くんです。銭湯で遊んでいると、相撲が弟子を4〜5人も連れて来まして、狭いところの真ん中に腰掛けて洗っているのです。4〜5人の弟子が洗うんですが、洗い方が悪いとひっぱたくのです。相撲ってイヤなものだと思いました。そのひっぱたいた親方が強いのかと思ってましたら、あまり強くなかったです。それは震災前ですが。相撲取りは震災後も部屋は戻ってました。震災前は夜店も出るんです。にぎやかでいいものでした。震災後もしばらくは出ていました。
Q:食料はどうやって調達されましたか?
A:あのときは、玄米のにぎりをにぎってくれました。色がついているのでお醤油でもついているのかと思って喜んで待ってたのですが、食べられません。それは、兵隊が来てだいぶにぎってました。焼けないところを通ると、炊き出しが出ていました。あまり食料には困らなかったです。逃げ回っているときは、そんな意欲はないですから覚えていません。ただ、水は飲みたかったです。朝、助かったと思ったときに何か長いもので水をやってる人がいました。わたしのところにきて水を飲むかと言うので飲むと言うと、長靴に水が入っていました。それを飲ませてくれました。飲んだらジャリジャリして、変な匂いがして、飲まなかったです。氷を持って来た人もいましたが、自分たちで食べているだけで、くれませんでした。バナナを食べている人もいましたが、金鎖と取り替えていましたし。助かったことで、やれやれと思って欲も得もありませんでした。
Q:行政の対応はどうでしたか?
A:軍隊がすぐ出て来ましたから。兵隊が来て、治安が維持されて、観音様のあたりでも朝鮮人が殺されましたから、巡査が上から切って剣引き鉄砲で兵隊がついたという話もあります、観音様の前でも。
Q:玄米のにぎりを配っていたのは兵隊さんですか?
A:いえ、町の人です。焼けない人が来てやったんです。でも、救援物資なんて別にありません。何もないです。ですから小松川からフトンを買いに行ったときに、それまで一枚1円50銭だったのが、5円になってました。親父が怒ってました。
Q:お母さんは、着物で逃げていらしたのですが、その後、逃げずらかったと洋服に変わったということは?
A:洋服になったのはおばあさんになってからで、ずっと着物でした。震災後も着物でした。わたしは、半ズボンで足袋をはいて、妹は浴衣でした。当時の小学生で洋服というのは少なくて、親父がハイカラで、注文して兄弟二人にお揃いで洋服を着せて喜んでました。ふだんみんな、学校へ行くのも着物です。木綿の筒袖の着物です。震災後は、貧乏な家庭では浴衣でしたが、だんだん洋服に変わってきました。あの頃、着物の配給などはありませんでした。ただ、地方からそういったのがきまして、ちゃんちゃんこの変なのを配給してくれました。田舎からの救援物資ですから、おかしくて着られませんでした。配給は逃げた先でもらいました。いまのように、着るものから食べるものからパ−とくることはありませんで、何もありませんから自力でやるほかはありません。
Q:お父さんは、もともと東京の方でしたか?
A:親父の先祖というのは新潟です。上杉謙信の家来だったと威張っていました。新潟の長岡で北越戦争のときの下っぱか何かで。お爺さんの代で東京へ出てきて、裕福な家らしく、東京へ勉強に出て来たのです。仲間の3人で来て、一人は有名な弁護士になって、一人は東京市会議長になったそうです。うちのお爺さんだけ、わけがあって勉強をやめて、神田で餅菓子屋をやって大当たりをして儲けたそうです。そこでいろいろな事情から悪い人に財産を取られて、親父は8才位から追い出されて苦労したらしいです。あの頃は、もともとお爺さんは奥村善太郎という名前だったそうですが、明治時代というのは戸籍がすぐ変わるそうで、それがいつの間にか、斉藤善太郎になって、今度は宮崎善太郎になって、当時は戸籍が勝手にかえられるそうで。いまはそういうわけにはいかなくて、あの頃はメチャメチャだったんですね。震災の体験はいやですね。今度の空襲も凄かったですよ。二葉小学校と言うのは木造でしたが、焼けて鉄筋コンクリ−トになったんですが、わたしが宇都宮から3月10日に東京が焼けるのが見えるんです。昼間でも見えるんです。ワ−と見えますから、すぐ近くが燃えているのか と思いました。で、12日に出てきたんです、母親がいますから心配で。そしたら、軍隊が出て来て大分かたづけたんですが、二葉小学校のところへ行きましたら、そこは3階建てですが、表道路に人が死んでいて、見るとここから脳が出ているのです。体はそれほど焼けているようではないんですが、頭の鉢が割れて脳が出ていましたし、これは大変だと学校に入って見ると煙が出ているんです。そこで、人が全部燃えているんです。先に燃えた人はしゃれこうべなって燃えているんです。そして、学校のプ−ルの中でも死んでいるんですが、それは体は何ともなくて防火服を着て浮いているんです。ともかく凄かったです。屋上へ上がって見ましたら、屋上のお稲荷さんは助かっていました、下は全部燃えても。ですから屋上にいれば助かったのかもしれませんね。家の親戚もあそこで死にました。可哀相に、子供を抱いて黒焦げになった人もいます。往来にいっぱいの黒焦げで。
Q:お宅には、震災の頃のものが何か残っていませんでしょうか?
A:前にはいろいろあったんですが、空襲でみんな焼かれてしまいました。家に置いたまま全部、書画骨董など焼かれてしまいました。ですから、何もないんです。

1ー2.泥水とトタン板

次は、石上敏明さんの体験。前記の宮崎氏と同様、石上氏も当時9歳で、場所も同じ本所市南二葉町で被災した。ただし、両氏は顔見知りではない。石上氏の自宅は地震とともに崩壊したが、その前に間一髪で家から飛び出した。その後、祖母と母と3人で被服廠に避難したが、すでに避難者でいっぱいであり、やむを得ず水たまりに陣取ったが、結果的にはこれが幸いした。

◎手記

「泥水とトタン板 石上敏明(本所市南二葉町33)  
当時、私は9歳でした。突然「ゴオ−ッ」という異様な地鳴りがした。祖母は安政大地震の経験者であり、誰れよりも早く表へ飛び出していった。父は母と私を抱えて、タンスに寄りそっていたが、様子を見て「今だ逃げろ」と云われたが、二度ばかり転んでやっと表に出た、その瞬間に家は大音響と共に倒壊した。木造家屋はミシミシと音を立て、屋根瓦は落ち続け、私達の避難を妨害した。
父は、在郷軍人で、町内の人の救出作業に行き、残された私達三人は、父に命じられた被服廠に向ったが、道路は人と荷車で一杯で前に進めない。屋根の上で抜刀した巡査が、「荷物は捨てろ」と叫んでいた。数万坪の被服廠跡は人と荷物で既に満員であった。僅かに、前日の雨で水が溜ったところが空いているだけである。私達はそこに陣取ったが、今にして思えばこれが幸したのでした。時間は不詳ですが、突然、竜巻が起った。この時、荷物と人間が空中に舞い上るのを見た。火勢は一挙に荷物に火がついたのです。私達は、目の前の水溜りに飛び込みました。私の膝あたりの深さの水溜りの底を祖母は懸命に掘り続け胸のあたりまで掘り下げるという超人的な作業をなしとげた。火は熱く泥土と化した水に、顔を入れたり出したり、赤く焼けたトタン板が飛んできて何人もの人々が死んでいった。その板を頭に乗せて火の粉を防ぐが、すぐ熱くなり、水に浸しては頭に乗せる。これを何十回と繰り返し続けているうちに、誰かが「火は下火になったぞ」とどなっているのが聞えた。しかし、一度、下火になった火勢は再び盛り返し、又も死闘が続いた。
それから数時間経った頃「万歳、万歳」と喚声が挙りました。周辺は暗く夜になっていた。私達はどうして助かったのか説明は出来ません。濡れねずみの身体を抱き合っていました。やや落ち付きを取り戻してみると、周辺の水溜り以外のところには焼死体が類類としており、焼けてふくれあがった様は人間とは思えない程です。祖母と母は、煙で目が見えない、幸か不幸か、私だけが目が見えたので、私達は、少しづつ移動して被服廠を出ようとしましたが、途中で半死の状態の人が「水を呉れ、水を呉れ」と私の着物をつかんで離しません。濡れた着物をしぼって泥水を口に当ててあげましたが死んでしまいました。被服廠の廻りの溝にも焼死体が積み重なり見るも無惨の光景でした。
私は、目の見えない祖母と母を連れて安田庭園に落ち付き、二人の目を冷すため、近くの氷室に氷を取りに行きました。この時の氷は、まさに値千金のものでした」 

◎インタビュー2.石上敏明氏(1990年7月9日)

A:震災で一番倒壊したのは、2階屋が多かったですね。次に平屋という感じ。
Q:そうしますと飛び出して、それからどこか広場か何かへ?
A:南割下水という、堀割の下水がありましてね。それから、こちら側の前橋から行くのが北割下水といいまして、北と南に割下水がありまして、堀割があったんです。子どもの頃でよくわかりませんが、よく水が出たんです。その水を防ぐために、墨田川に流すべき堀割を作ったんですね。幅4メ−トルあるかないかのものが、そこの13軒道路といいますが、いまでいうと4車線のそこが広いものですから、そこのどぶのところへみなさん避難したんです。
Q:かなり避難者が多かったんですか?
A:もうわれ先にと被服廠に逃げ込む連中と、一時そこへ避難された人々と、大別して2つの人たちですね。
Q:町内にけが人なんかかなりいて、お父さんがそちらに行っちゃったんですか?
A:ええ、在郷軍人の役員をしていたものですから、家族をほっておいて町内の人の救出に飛び出して行って、わたしたちは被服廠に逃げ込めと、そういう指示を与えて、自分は救援に回ったんですね。
Q:2〜3日前にお話を聞いた人は、もうけが人がひどかった、かなり戸板に乗せられていたというんですが、そのへんはどうでしたか。
A:倒壊の下敷になった人をひっぱり出して、割下水の通りに、戸板に乗せて運んだのを見ておりますね。
Q:そのときは、まだ火災は起きませんか?
A:はい。もう、ボツボツと燃え始めてましたね。やはり昼時ですから、当時ははだか火で炊飯をしていましたから、そういう関係で発火するのが早かったんじゃないか、と思いますがね。もうボツボツと、要所要所に火がチョロチョロと燃え出したのを記憶しておりますね。
Q:お父さんが、被服廠に逃げろとおっしゃったんですね。
A:ええ。父は、被服廠が広い空き地だから、あそこが一番安全だと思ったわけなんですね。ところが、わたしたちが逃げ込んだ頃には、もう時すでに遅しで、前に逃げた連中が荷車で荷物を満載して、優先的にいい場所を占領してましてね。わたしたちが被服廠に着いたのは、満員にほぼ近かったですね。
Q:なるほど、それは何時頃ですかね?
A:時間にしますと、あそこに逃げたのが1時ちょっと過ぎくらいじゃないですか?
Q:1時間くらいで満員ですか?
A:ええ。ものすごかったですね。
Q:もう、みんなほとんど荷物を担いだり、荷車ですか?
A:当時の巡査はみんな、当時はサーベルを持っていまして、あれを抜刀しましてね。ちょうどその青物市場、いまの「やっちゃば」といいましてね、あの向こう側にレンガの古い建物がありました。東電の 建物でしたが、あの前に共同便所があったんです。割下水の道路に面して、その上で抜刃して、「荷物 を捨てろ、荷物を捨てろ」と怒鳴っているのに、いっこうに効果なしでね。災害地点から荷車で運んで いますからね。あれが、災害を大きくした一番の原因じゃないかと思いますね。
Q:警官が、捨てろ捨てろと言っても聞かないんですか?
A:ええ、もう全然ですね。ああなってくるとパニックです。手に持っているものはいいんですよ。ところが荷車で入ったり、ものすごいリヤカーに乗せるとか、そういった荷物を数多く防御しようとしたらしいんですけど、時すでに遅しで、ああなってくるとダメですね、言うことを聞きませんね。
Q:数日前に聞いた人の話ですけど、遠くから「被服廠に逃げろ、被服廠に逃げろ」という声が、どこからともなく聞こえてきたというんです。そんなことはありませんか?
A:まあ、あの数万坪の奥行きですから、誰が考えても、あそこならという感覚があったと思いますね。ですから、誰とはなしに被服廠へという感覚だったんじゃないか、と思いますよ。別におまわりさんが逃げ込めということはなくして。
Q:当時、もし地震があったらここへ逃げるんだ、なんて話してたんですか?
A:そういう指示は、事前にはありません。全くありませんでしたね。
Q:家族のあいだでは、地震の話はあまりなかったですか?
A:ないですね。で、子どもの頃には、その空き地が一番子供の良い遊び場だったもんですから、なかのようすはよく知っているわけです。
Q:時々いらしたんですね。
A:ええ、よく遊びに行きましたからね。
Q:それで、なかのほうに入ったと。
A:前日にちょっと低気圧がありましてね、ものすごく大雨が降ったんですよ。それで、ちょっと中央から「やっちゃば」寄りのところに、数百坪くらいの水溜りがありましてね。その深さが、だいたい20センチメートルくらいですかね。それくらいの水溜りが数百坪もありましてね。その回りが湿地になっておりまして、そこだけしか空いてないんですよ。あとは全部満員でしてね。わたしは逃げたのが遅かったもんですから、ちょうどその湿地帯に何か板切れ持ってきて休息した、という感じですね。
Q:板切れに座っているんですね。
A:ええ。
Q:それで、被服廠に着いたとき、もうこれで安心だと思うわけですか?
A:いちおうね。ずいぶん大勢人がいるなと驚いたことが1つと、すごく荷物が多いなということと、後はまあこれで幾らか落ち着けるのかな、ということを最後に感じましたけど、子供心にね。
Q:この頃は、まだ空は暗くなっていないんですか?
A:わたしたちが入って、ほんの30分くらいしたかなと思ったら、もう真っ暗になりましたね。
Q:ははあ、それは火災の煙ですかね。
A:結局、何ていうんですかね、ちょうどこの新聞紙に燃え移る瞬間の、太陽の光線を遮る煙というんですか、そんな感じのものじゃないと思いますがね。そしたら、竜巻が起こりましてね。
Q:石上さんが被服廠にお入りになったのが、地震の1時間後とおっしゃってましたけど、その頃はもう南北には火はチラチラと。
A:チラチラじゃなくて、ほとんどもう燃え始めて。
Q:そうすると、この本所のあたりはかなり早い時期にもう燃えたんですか?
A:ええ、もう乾燥してましたしね。それと夏でございますから、火の回りも早かったです。木造ですから、よけいに火の回りが早かったんですよね。
Q:やっぱり、家が倒れてそこから火がでたんですかね。
A:だと思いますね、現場まで見ておりませんからよくわかりませんが。被服廠の正面とこちら側と。両国のほうは燃えてなかったんですが、二方に囲まれたというんですか、二面からの火が燃え移ったという感じじゃないですか。竜巻の起き方も、そういう感じで起きたんじゃないかと思うんですがね。
Q:火事のあいだは生温かい風が吹くといいますが、そんなんじゃないですか。すぐ竜巻ですか?
A:ええ、すぐ竜巻ですね。もうまるで、火がボッとつくという感じですね。全身にガソリンをかぶっていて、火をつけるのと一緒ですね。ボッといった瞬間ですね。
Q:相当カラカラなんですね。竜巻でトタンが巻き上げられたり、馬が浮き上がるほどすごいですか?
A:ええ。結局、付近の家が燃えはじめて、トタンの家もありましたからそれが竜巻で真っ赤に燃え上がって、それが降りてきてそれで亡くなってますよね。
Q:なるほど。それで、その湿地帯のところ自体には竜巻は来ないんですか?
A:来ましたよ。全部来ましたけれども、同時にわれわれはその水溜りに飛び込んだ。その瞬間に、子供心にうろ憶えに覚えているのは、母親に「お母さん、着物が濡れるけどいいか」なんて余計な心配していたのが、いまだに記憶に残っていますよ。
Q:20センチくらいの水溜りに?
A:そうですよ。
Q:体を伏せるわけですか?
A:ええ、それを浴びたりですね。おばあさんが、爪が駄目になるくらいに掘ったんですよね、それに水が寄ってきますから。それで、トタンを頭にかぶると、それがまた熱くなって水につけるとまたかぶる、という調子でね。そのへんから後は、ちょっと記憶にないですね、どうやって助かったのか。
Q:その水溜りにいた人たちは、みんなたいていそんなもんですか?
A:そうですね、それ以外の方法がないんじゃないですかね。ふとんが一番良かったですね。水に濡れたやつをかぶりますと、なかなか乾かないですからね。トタンはすぐ熱くなるんですよ。まずこのへんに火の粉をだいぶ浴びて、こう払ったんですけど。とにかく熱かったですよ、すごく。
Q:すさまじい経験ですね。それで、ハッと気がつくともう夜なんですか?
A:もう時間的な感覚はありませんね。とにもかくにも幼心に残っているのは、一番最初の「万歳、万歳」という奇声を発した人がいたんです。大勢で、火が消えたぞ万歳ということですね。それを憶えてたんですが、すぐ消えちゃったんですよ、その声が。というのは、また火勢が勢いを盛り返したんですね。それで、その次に万歳が聞こえたんですよ、その万歳の声のときには完璧に火が下火になったという感じがします。万歳という声が聞こえたのは、もう真っ暗でね。何を見てもわかりませんでしたけれどもね、明け方前でしたから。で、しらじらと明け方になってきてから、何か人間がうごめく声とか半死の方とか焼け死んだ方っていうのがチラホラ見えてきましてね。恐ろしかったですね、あのときは。
Q:そうすると、午後1時から明け方まで格闘しているわけですね。
A:そういうことですね。
Q:20時間くらい。そんなにいかないですかね?
A:17、8時間はそういう状態だったということですか。被服廠のまわりに掘り割があったんですよ、どぶみたいな。そのなかで助かった方がおるんですよね。いくらかのドロドロがあって、そのなかに浸かって助かったと。わたしの父がね、あくる日われわれも全滅という話だから死んだと思って半ば諦めて、でもいちおう捜しに来たんですが、そのどぶのなかにおばあさんがうずくまっていましてね。半死半生で下にずっと火傷していまして、それを助けたそうです。その助けられたおばあさんが、伏見宮のお乳母さん。これが後で大笑いの話になりましたけどね。
Q:そうすると、その湿地帯のところの人とドロドロの人だけですかね。
A:それ以外に助かった方はいらっしゃいませんね。
Q:そういうことは結局、後から入って条件の悪いところの人が大勢助かったということですよね。
A:まあ、好運の矢が当たったといってもいいんじゃないですかね。後から行ったほうが好運だったという、先に行ったほうがかえって悪かったという。
Q:で、おばさんとお母さんの目が見えなくなっちゃったとか。
A:ええ、煙とドロドブのぬかるみみたいになっちゃったですからね。それで、目と耳をやられて見えなくなったんじゃないですか。わたしだけが、偶然にも目が見えるんですよ、不幸中の幸いでしたけれども。まあ、それだけよけいに怖い思いもしたけれども、目が見えるから。
Q:死体をかきわけながら、安田庭園へ行くんですか?
A:そうですね。安田庭園に行くんですが、その途中が、子どもの頃に憶えている時間でもちょっとかけて行けば5、6分で行かれる場所に、1時間以上もかかっちやうんですよ。ということは、歩いているとつかまるんですよ。「水をくれ、水をくれ」っていってね。それで、着物がグショグショですから 「おじさん、口開けな」っていうと口を開けて、ぼくが絞って入れてやると亡くなりましたね。火傷に水は、逆にいけないんですってね。
Q:歩いているとつかまっちゃうんですか?
A:そうです。裾をつかまえまして、「水をくれ、水をくれ」といいましてね。
Q:5、6分のところを1時間もかかっちゃうんですか。
A:で、氷倉がすぐそこにあったんです。氷倉は子ども心によく知っていましたから、氷をかいちゃあ持ってきて、母とおばあさんの目を冷やしてやったんです。当時は、池の水のなかにはもう水死体がゴロゴロありましたからね。母たちは見えないから、その水で顔を洗っていましたけれどもね。
Q:そのときにお父さんに会うんですか?
A:ええ、そこへ父が捜しに来たんです。もう被服廠に入って完全に死んだと、諦めの眼で入ってきましたね。「石上、石上」と怒鳴って入ってきましたら、まさかと思ったのが生きてましたから。不幸中の幸いでしたよ。
Q:感動ですよね。大変な経験ですよね。それで、お父さんといっしょにどこへ行かれたんですか?
A:安田庭園にいたのは数時間だと思いますね。ものを食べてませんから、空腹なんていうことは常識的に判断できるんですけど、全然おなかがすいてないんですよ、緊張してましてね。それで、町屋のほうが燃えてないからあつちへ行こうということで、衆議一決でトコトコと歩いていったのを記憶してますね。どこで泊まったかは定かではありせんけど。
Q:それは家族だけで?
A:家族だけです。
Q:あちらに親戚があるとか?
A:いいえ全然関係ないです。ただ、燃えてないからということで。何か食べ物があるだろうという感覚ですかね。
Q:そのときは野宿でしたか、どうなんでしょうかね。
A:そのへんのところが、わたしは家のなかに寝たような記憶がありますけど。どなたの家かは記憶はありませんけど、雨露がしのげましたから。とにかく屋根があったということです、家のなかですよね。
Q:そういう避難の過程で、例の朝鮮人の話とか聞きませんでしたか?
A:ついてから1日くらいたってから、父親が軍服を着ておりますから、やはりその集団のなかでリーダー格になりまして自警団を作りまして、警備にあたったんですがね。そのときに、棒とかそういうものを持ってましてね、それに血のりがついているのをもって帰ってくるのを見まして、子供心にそれが恐くてね。大人たちの話を聞いてますと、いまだにわたし記憶に残っているのは、誰何するんですね、夜。韓国の人たちは濁点がでませんから、「オレた」と言ったら命がない、「ボクた」もダメなんです。「ボクだ」というと助かったんですが。まあそのような話をちょっと憶えていますね。
Q:発音で区別しちゃうんですね。そのほかの流言蜚語は聞きませんですか?朝鮮人の話のほかには。
A:そうですね。小さな子供の頃のことですから、ものを食うことが一番心配だったですね。一番不自由したのはやっぱり水です。
Q:水。それこそ被服廠で一晩中熱いところにいたら、ノドがカラカラでしょう。
A:それで、安田公園の池の水を飲みました、血をかきわけして。母たちもガブガブ飲んでいましたね。いまなら下痢するでしょう。
Q:なるほど。それで、荒川から何日かして戻ってきて、それからどうしたんですか?
A:わたしの記憶によりますと、わたしの父がさきほどお話ししました溝で助けたおばあさんですが、その方が伏見宮のお乳母さんで、わたしの父は竹内金庫ですから、竹内金庫の裏でバラックみたいのを建てて、そこで焼けた鉄のさび落しとかを家族でやっておったんですよ。そこへ、菊の御門のついた車が迎えにきまして、ここに石上というのはおるか、というのを聞いて、何か家の父親が悪いことでもしたのかと思いまして、ちょっとドキッとしましたね。そういう話のいきさつで、伏見宮の別邸に3ヶ月くらいごやっかいになりました。ところが、宮家の生活が堅苦しくて、とてもじゃないけど下町の人間には不向きでして、そうそうに逃げ出しましたけどね。いまのホテルオータニのあのへんでしょう。着物なんか全部おさがりをもらいましてね。午前10時と午後3時に、当時のお菓子のおさがりがありまして、これが唯一の楽しみでしたね。
Q:そのへんは全然燃えていないんですね。震災のあとかたもない。
A:ないですね。夜になると、兵隊さんが剣付鉄砲をもって警備をやってまして、われわれは職人の出身ですから、夜になると新宿のほうは燃えてないで繁華街ですから、たまには映画がみたいということになりましてね。ところが、門限が9時でカチッと門を閉められちゃうもんですから。兵隊さんにおまんじゅうを買ってくると、闇で出させてくれましてね、顔見知りのもんですから。そんな楽しい晩もありましたよ。
Q:伏見宮の乳母さんがたまたまこちらにきてたんですか?
A:お宿下がりで。亀沢町に自分の長男の家があって、そこにおさがりになってるときに震災にぶつかったわけです。
Q:なるほど。偶然ですね。それで、3ヶ月伏見宮さまの別邸でお世話になって、お父さんは会社に行ってたんですか?
A:ええ、竹内金庫に。それから、父親は静岡市の出身なもんで静岡市に避難しました。芝浦から扶桑丸という当時2千トンクラスの船ですか。それに乗って清水港にいきましてね、清水港にあがったら「避難民、避難民」といわれて、埠頭でいろいろくれるんですよ。どこかの帰還者みたいにね。あそこで食べたハヤシライスのおいしさが、いまでも忘られないですね。
Q:で、静岡市内でお父さんはまた新しい仕事を探されるんですか?
A:いや、父親は東京に残りました。われわれだけ。で、避難民っていうんですか、向こうの小学校に上がってましてね。学校に行くたびに、みんなに避難民ってひやかされるのがいやでね。
Q:そういう立場の人は石上さんだけでしたか?
A:小学校ではわたし1人でした。
Q:それじゃあ、お父さんは東京でバラツクか何か建てて住んでいたんですか?
A:だと思いますね。どういう生活をしてるのか、わたしにもちょっとよくわかりませんけども。
Q:それで静岡にはどのくらいいたんですか?
A:静岡にはせいぜい1年いなかったでしょう。すぐに東京が恋しくなって、東京に戻ってきましたよ。そのときも、まだトンネルが要所要所で不通でして、汽車が乗継ぎなんですよ。何かトンネルがみんなダメで、そこまで汽車がくると、それからまた歩いて向こうの汽車に乗るっていう感じで、東京に戻ってきましたけれども。それで、いまの亀沢2丁目18番地、昔の南二葉町ですかそこに住みましてね。
Q:ふたたび戻ってきたときには、家は建っているんですか?
A:もう家があちこちに建っていましたね。小学校も復活しましたし。クラスのなかを見回しましてもほとんど死んでいましたからね、子供が。
Q:小学校2年生のクラスで、半分くらい亡くなっているんですか?
A:そうですね、男女合わせて1クラスしかできなかったですから。あとの2組はなくなったんですよ。
Q:震災前は何組あったんですか?
A:3組ありましたからね。男組と男女組と女組とありまして、それが全部合同で勉強しました。学校が亀沢2丁目のちょうど角だったんですが、いまの二葉小学校のちょっと向こうにありまして、その向こうに江東病院、その跡に仮設校舎を作ってわずか20〜30坪くらいの学校を作ったんです。バラック の家を建てて、そこを学校にしましてね。何も教材がないから、焼けた瓦をもってきて、それに釘で絵 を書いて、それが加工の時間とかね。ノートも何もないですから、それで算数をやるとか。瓦は豊富にありましたからね。そのような教育を受けたのを記憶していますよ。
Q:まあ、そういう震災の後遺症みたいなものはずいぶん続きますか?昭和5年の復興祭くらいまで続くんでしょうかね。
A:そうですね。二葉小学校というのは、今度は本所の大空襲で一番被害が多かったんじゃないですか。2回も3回も被害が多いんですよ。わたしがちょうどビルマから戻ってきて、両国駅には昭和21年の5月に戻ってきたんですけど、駅長さんが「兵隊さん、夜は家に帰ると危ないから、そこの銚子行きの列車があるからそこでお休み下さい」と言うんですよね。なぜかと聞くと「いくら兵隊さんでも、寄っ てたかってむしりとられるから危険だから、夜は歩いちゃいけない」と言うんですよ。で、ホームへ立ってみたら焼け野原なんですよね。それが、本所の震災のときの焼け野原とまったくうり二つなんですよ。
Q:うり二つですか?震災のあとに帰ってきて、子供さんが3分の1くらいになっちゃった話ですけど、そうすると住民も3分の1も減っちゃったんですか?
A:全滅なんていう家がゴロゴロありました。ちょうど、わたしの家の割下水に出る左側に二葉湯というお風呂屋があったんですが、そのお湯屋が全滅です。そういう家庭が方々です。さもなければ、父親や母親を亡くしたとか兄弟を亡くしたとか、そういう家庭が圧倒的に多かったんじゃないですかね。
Q:9歳では難しい質問かもしれませんけど、震災前と震災後とこんなところが変わったとかいうのがありますか?一番変わったのは、どういうところですかね。それこそ二葉の周辺の話でもいいんですけど。
A:上野公園ですね。東京からみんなあそこに避難しまして、あそこで商売をはじめた方が大勢いらしたんですよ。すいとん屋とかしるこ屋とか、全部食べ物屋に関係したことですね。で、本所あたりからてくてく歩いて食べに行ったものですよ。ですから、期せずして思わぬところに食堂街ができるんじゃないかと思って。いまだにアメ横、アメ横っていっているのが、そのイメージからきてるんじゃないかなと思いますけど。
Q:その頃は全然そういうのはなかったんですか?
A:なかったですね。それと石の家っていうんですか、いわゆる鉄筋コンクリートっていうのはいかに地震には強いかっていうことですね。ところが鉄骨が入ってないものはダメですな。浅草の12階みたいに頭から崩れるということで、12階が崩れたのを見に行きましたけど、頭のほうから崩れましてね。 意外に、鉄筋の家でも3階建てが当時の高層でしたけど、あれが丈夫だったですね、かは燃えてます けど。ただ、崩れたのは見たことがなかったです。だから、今度建てるときはコンクリートの家がいいんじゃないかと思ってますけど。
Q:浅草観音が燃えなかったですよね。
A:あれは、火の方向、風向きが変わったという話をチラッと聞いてますけどね。両国のこのへんも燃えなかったんじゃないですか。震災のときも何軒か一部残ったんですよ。風向きが急に変わったんですね。それから、大空襲でも残ったんでしょう。何か因縁でもあるんじゃないですかね。あの吉良上野介の屋 敷が残ったんですよね。
Q:浅草の場合は観音さまのご利益があったっていうんで、信仰する人が増えたなんて話を聞くけど。そういえば、そういう場所があるんですね。いくつか震災も戦災もまぬがれたというところが。
A:でも、浅草の場合は吉原はすごかったっていうんじゃないですか、犠牲者が多くて。そして、この門前仲町の洲崎というところも花柳界がありまして、あそこも被害が出たんじゃないですか?
Q:子供さんじゃあ、焼け跡を見に行くっていうことはなかったですか。
A:自分の近所くらいしか見てないですね。あんまり遠くのほうまではちょっと。
Q:やっぱり、被服廠以外に死体がゴロゴロしているのをあんまり見てないですか。
A:隅田川は年中流れてましたね、いやな感じがしましたけど。でも、避難した後ですから、空き家が燃えているんですから、被害者というものはあまりないんですよね。一箇所にまとまって亡くなっている という。
Q:そうですね。被服廠もこの先の吉原も弁天池もそうですね。
A:ただ2〜3日したら歩兵三連隊というんですか、麻布の連中とか近衛の連中が玄米の炊出しにきたんですよ、このへんの救援に。あれは食べられたものじゃないですね。玄米のおにぎりというのはポロポロしてますし、まして消化は悪いし。健康にはいいんでしょうが、おいしいとは思わなかったですね。
Q:お腹がすいてても、うまいとは思わない。
A:ええ、あれだけは見向きもしなかったですね。
Q:そういう炊出しは、兵隊さんだけだったんですか?ほかに住民はしないんですか?
A:兵隊さんだけでしたね。それと、朝鮮人のうわさが恐かったですね。小松川のほうですか、だいぶ激しくあったとか、チラッとうわさに聞きましたけどね。
Q:はい。攻めてくるっていううわさがあって、隠れたという人もいましたけど。押し入れに隠れちゃったとかね。これはまったくのデマですけどね。ところで、戦争をきっかけに服装が変わったとか、人の気持ちが変わったとか、そういうところはないですか?
A:もう当時、わりかた着物の生活というより洋服に変わってきましたね。むしろ、動きやすいということでね。ですから、着物はそのへんから衰退しはじめた。震災が一つの要因じゃないかと思いますね。活動しずらいですよ、見てはきれいですけどね。
Q:石上さんが震災を経験した日も洋服でしたか?
A:わたしは着物でした。
Q:着物でしたか、お母さんもおばあさんも?
A:全部着物でした。
Q:やっぱりその頃は着物なんですね。
A:震災前はね。小学校ではかまをはいてますから。それで、ここに手ぬぐいをさげてますから。そういうかっこうですから、もうこれがノーマルなスタイルだつたんでしょうね。
Q:震災後にクラスが1つになって、男女クラスになつたときも大部分まだ着物でしたか?
A:まだ、その当時は物が不足してましたから、あるものしか手に入りませんしね。落ち着いてきたのが10年後くらいじゃないですか。震災のときは「復興、復興」ということばが妙に流行りましてね。復興、復興ということで徐々に服装も変わってきたという感じで、そのうちものも豊富になってきて、そういう波に乗ってあらたまって洋服に変わっていったという。
Q:焼け跡が完全になくなったなあと思ったのは、震災からどれくらいたってからですか?
A:復興は、わたしがあのとき感じたのは5年という話が出てたんですけど、5〜10年くらいのちょうどあいだくらいじゃないですか、完璧に変わったというのは。人間の復興の力というものはたいしたもんですね。
Q:昭和5年に復興祭というのがありますね。あれはかなり大きな祭りだったんですか?
A:そうですね。隅田川をみますと、いま防波堤がたくさんありますね。昔はなかったんですよ。このへんで水泳ができたんです。わたしも記憶してます、このへんで水泳したのをね。このへんに着物をおくと、着物がなくなっちゃうんですよ。おまわりさんがきて持っていっちゃうんです。あとで、おまわりさんのところに行って、小言を受けてもらったのを記憶してます。
Q:魚もかなり釣れるんですか?
A:ええ。ハゼなんて無数に釣れました。この引っ込みのところに堀割があったんですよ。両壁のところに荷物の積みおろしの堀割がずっとあって、それがなくなっちゃったですね。ちょうど、安田別邸の宿所寄りのほうの向こう側に大きな氷倉がありましてね。
Q:そんな火事があっても、氷が大丈夫でしたか。
A:大丈夫でした。おがくずの下に隠れてましたからね。
Q:そのときの氷はおいしいだろうなあ。
A:いやもう貴重品だったですね。もう飲料水のかわりに、みなさんが着物に包んで持って帰るんだけども、どこで探してきたと聞かれて教えるととられちゃう感じがありましたから、意地悪して教えなかったですけど。そんな茶番劇がありますな。
Q:被服廠というのは子どもの遊び場だったんですか。
A:たいがい遊び場だったですね。その後で、錦糸町に錦糸公園というのができまして、それも予備に作ったんじゃあないですか、当時の大人たちの考えで。
Q:その地震の夜、お父さんはどこにいらしたんですか。
A:隅田川を何回も何回も往復したらしいです、泳いで。燃えている最中には。
Q:やっぱり熱さから逃げてですか。
A:逃げてですね。蔵前から飛び込んで、隅田川を往復したそうです。そうすると、泳げない人はつかまるそうです。そうすると潜るんです。で、苦しいからその手を離すから、その瞬間に逃げるんです。人を助けることよりも、自分が助かるのが精いっぱいだった。
Q:なるほどね。
A:その次に焼けた舟が流れてきて、それにつかまって休息したりしたと、そんな話をしてましたよ。
Q:そういう厳しい経験をして、一家全部助かったというのは珍しいほうですね。
A:奇跡ですね、本当に。わたし一人っ子ですからね。今後の戦争だって、兄弟3人とも戦死したのがいるかと思うと、わたしみたいに一人っ子が生きてられたりして、これはわからないですな、運ですよ。運以外の何ものでもないですよ。
Q:震災で助かった人が会を作って。
A:ああ、そうですか。震災後の10年くらいは、9月1日というとものすごく盛んだったんです、慰霊を兼ねて。でも、最近は火が消えたようですね、いわゆる風化しちゃったというか。安田別邸で同級生 と二葉小学校のクラス会を開いて15人くらい集まって、そのときに行ってみたんですけど、昔の面影はないし。震災記念堂へ行ってみたところで、お線香もまばらだという感じで「人間も60年過ぎるとダメだね」なんてことを、お互いに共通の感覚で話しましたけど。
Q:二葉の同級生というと、震災の経験者ですよね。
A:全部そうです。いまでも同級生会で必ず震災の話題がでますよ。で、15人くらいは集まりますよ。年に1回は必ずやっているんです。
Q:そのなかで、被服廠に逃げたのは石上さんひとりですか。
A:わたしと、もうひとり女性で市川さんという方がいますけどね。この方も同じように、水溜りに飛び込んで助かった。
Q:ああ、やっぱり。
A:この人は、お姉さんが竜巻で飛ばされて亡くなった、とチラッときいてますけど。ご姉妹を2人くらい亡くしているんじゃないですか。
Q:市川さんとおっしゃいましたか。震災の前後ですけど、自動車は震災の前から走っているんですか。
A:自動車はあまり見たことないですね。震災の後でしょうね、車が流行りはじめたのは。当時は荷車とか馬車とか。自動車なんかは、あの当時貴重品の貴重品で見たこともないという感じで。
Q:震災の頃の子どもの遊びはどうでしたか。いまとほとんど同じですか。
A:あの当時の遊びというと、本所のほうは雨が降ると水が出るので、たらいで舟をこぐとか、あとはめんこ、ベーゴマ、そんなところじゃないですか。尾上松ちゃんが盛んな時代ですから、剣劇ごっことい うのが盛んでね。
Q:ちゃんばらね。震災を境にして遊びが変わるということはないですか。震災をきっかけとして、サラリーマンがふえたとか、住宅街が多くなったとか、大阪弁がかなり東京にはいってきたとか、いろいろ 変化があると思うんですが。
A:震災を経験した方はとくに、もう東京が恐いという感じがあの時分から植え付けられましたね。おそらく地方へ行きたいという人が圧倒的ですけど。後になって聞いてみますと、ああ離れるんじゃあなかったと、向こうへ行ったら不自由でしょうがないと。やはりデパートの下に住んでいるのが一番便利だと。こういうのが共通点みたいで、東京の人間というのは、東京を離れられないみたいですね。
Q:石上さんのご両親はもともと東京の出身なんですか。
A:いいえ、父は静岡です。母は江戸っ子で、深川生まれなんです。ちょうど森下あたりの生まれらしいですよ。父の郷里は藤枝ですけど、このあいだも家内をつれて藤枝に行ったんですが、どうも子供の頃 に父親につれて行ってもらったときと全然イメージが変わっちゃってね。
Q:どうも長いあいだありがとうございました。またお話しを聞かせていただきたいと思います。


                                   

続く