◎インタビュー1.宮崎 勝次氏(1990年7月21日)     Get SoundVQ!

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A:あの当時は長屋がいっぱいありまして、それをみんな壊してそこを買収して工場を建てたのです、私の家は。工場といっても百坪くらいの工場ですが。両側の右側に住まいがありまして、寄宿舎を造りまして、相当手広くやってました。
Q:具体的にはどんなものですか?。
A:錠前がございますね、ライオン印のマ−クの錠前を作っておりました。それが日本一でして、ライオン錠の宮崎といえば有名なものでした。そのほかにいろいろ雑貨を作っておりました。当時、電気アイロンなんてなかったのですが、電気アイロンで蒸気が出るものを作ってデパ−トへ出して売れなかった、なんてこともありました。
Q:震災当時、ご家族は何人でしたか?。
A:家族は、姉が2人、兄が1人、妹が当時は1人です。
Q:では、5人兄弟ですね。
A:いえ、その後また2人生まれています。8人いまして、私が9つで、私が助けた妹が7つですから。それとお父さんとお母さん。
Q:震災のその日の出来事を聞かせてください。あの日は9月1日で。
A:暑かったです。ちょうど昨日、一昨日みたいな暑さです。鎌倉から避暑をして帰りまして、帰って来たのが27、28日くらいで、すぐ地震にぶつかりまして。
Q:そうすると、学校からお帰りになって、始業式だったということですね。
A:校舎の隅にあるブランコにのって遊んでいました。そのとき地震が来て、それがグルグル回っておりられなくなりました。すごかったです。棚にあったものがみんな落ちてきて、電気の傘など回りまして。工場は二棟になっていまして、真ん中に太い梁が通っていまして、その梁と柱が剥がれそうになりました。それをどうなるのかとしがみついて見ていました。
Q:その工場は倒れなかったですか?。
A:それが、大きい機械がありましたので、グ−と来たときに機械が支えたんです。ですから、工場は壊れなかったです。それで二階へ行く階段がちょうど縄をよったようによじれてしまいました。それで上がって行くのが大変で、あの厚い板がよじれてしまうんです。それでやっと上の座敷に上がりましたら、畳が波打っているのです。タンスなどは倒れなかったんですが、工場の上の大きな物干し場があったので、そこへ上がりまして、いつの間にか兄弟や親父など集まってようすを見ていたわけです。地震はおさまったんですが、今度は火があちこちから出て来ました。
Q:地震がおさまって一時間くらいですか?
A:そんなにありません。間もなくです。それで、うちの親父が火事を数えました。何箇所かと。それで、何箇所あるけれど、隅田川があるから向こうへは火は行かないだろうと、それで本所に被服廠跡があるわけです。それで皆そう思ったんですね、被服廠跡へ行けばいいと。それで荷物を持って皆そこへ行っちゃったわけですね。それで、本所の厩橋の先に若宮町というのがありまして、そこの火が猛烈でザ−と黒い煙がきて上からパラパラ落ちてくるんです。
Q:若宮町と南二葉町というのは相当近いんですか?
A:いえ、そう近くはありません。石原通りを越して向こうですから。それで、そのとき親父が数えていたんですが、その火が頭の上をワ−と煙がきまして、上からパラパラと落ちてくるんです。これは危ないから被服廠へ行こうと、それで行ったんです。そこへ集まった若い人、徒弟ですね、そういう人がタンスや何かを持って行ったわけです。
Q:お宅から被服廠まで距離はどのくらいありましたか。
A:そうですね、電車通りを越すだけですから、50ー60メ−トルくらいです。
Q:被服廠に避難し始めるのは、すでに火がかなりあって、もう逃げないといけない状態ですか?
A:いえ。そのときは火は全然来ないのです。ただ、当時は路地が多くて道路が狭いんです。ですから、 一軒家が壊れるともう出られなくなりますから。それで、通りに出たときには、家が上階から壊れたりして血だらけになったケガ人で、もう右往左往です。やっと被服廠に入るときに、あの前に一間くらいのドブがあるんで、ふだんはトタンで囲ってあるんですが、それを倒したり壊したりして皆入って行ったんです。皆、荷物を持っていますから、まさか火が来るとは思わなかったんでしょう。そのとき、すでに朝鮮人の話が出ていまして、噂で朝鮮人が火を付けたとか、品川が洪水でいっぱいで、間もなくここにも水が来るとかという、流言蜚語が盛んでした。
Q:お父さんが被服廠に行こうといったのは、地震から1時間から1時間半くらいのときですか?
A:うちの親父は、一番最後に入ったらしいのですが、その時は火に追いかけられてやっと入ったそうです。私たちは先に入りました。おふくろと姉が2人と兄と私と妹と、赤ん坊がおりまして、母親が抱いていました。皆を逃がして最後を見届けてから親父は入ったんです。それで皆、中に荷物をびっしり置いてまして、まさか火が来ると思わないから、全部の人がタバコを吸ったりして、悠々としていたんです。家財道具の横に座ったりして、家財道具と人でいっぱいでした。
Q:お宅も家財道具を持って行きましたか?
A:みんな持って行きました。タンスや布団までありました。よく雑誌には4時頃から火が出たとなっていますが、もっと前からだと思います。というのは、見ていますと太陽がここらへんにあるんです。真夏ですから、私は2時頃ではないかと思います。そこへ黒い煙がワ−と来たんです。そしたら太陽が真っ赤になりました。ああ、太陽が真っ赤になったといっているうちに、ウワ−と風が吹いて来たんです。その風が来たら、痛くていられないんです。
Q:砂塵ですね。
A:はい、まだ火は来ないんですが。で、みんなタンスの影に隠れたり、毛布を被ったりしているんです。私も番頭の後をついて行って、左側に郵便局を造っていたんでポストがずっと並んでいて、そこへ入ろうとしても、もう人でいっぱいでした。やっと入れてもらったんですが、下に窓があってそこから砂が入ってきて、いられなくて飛び出してきました。そして、親父のいるところはそこだからとやっとたどり着いたら、そのときぼつぼつ火が来る頃でした。それで、妹がまごまごしていたので、七つの妹の手を引いて逃げました。ともかくアッという間でした。パ−ッとすごい火でした、全部火なんです。それで荷物に火がついて、まわりは全部大人です。子供はあまりいませんでしたから、ただ押されて歩いているだけです。でも子供だったから良かったのかもしれません。妹が熱い熱いというもんですから、上着をを脱いで上にかぶせてやりました。かぶせたらアッという間になくなってしまいました。まわりは 皆大人ですから、アッという間に持って行かれてなくなってしまいました。それで、そんなに熱いのかと見ましたら、全部火なんです。そのとき、はじめて熱いと思いました。それから は夢中でどうなったのかわからず、押され押されて行くだけなんです。上から、大八車は落ちてくるし、タンスや布団が落ちてきました。それで、どこに行っていいのかわからず、押されて右往左往しているだけで、火がどんどん来ますからアッという間に体に火がついて。どこを見ても火ですから。わたしは子供で小さかったから助かったのだと思うんですが、踏みつぶされなかったし、どういうわけか。で、ずっと手をつないで逃げていました。その感触はいまは覚えていませんが、しまいまで押さえていたのは事実らしいです。朝は手があかなかったですから。それで、わたしがよく覚えているのは、あそこに学校を造ったり郵便局を造ったりするのでトロッコがあったのです。そこを越そうと思っても越せないんです、火と風で。越したからどうということはないんですが、押されていきますから、押されて転んじゃうと死んでしまいますから、それはもう凄かったですから。それで、やっとそこを越したことを覚えています。あとは、どうなったのかは全然覚えていません。熱いという記憶もありませんね。ただ右往左往していただけでした。そして、偶然に、いきなりひっぱたかれたのです。パ−ンと ひっぱたかれてハッと思ったら、前に素裸のどこかのおじさんが、体中傷だらけ火傷だらけの人があぐらをかいて座っている、そこを私が踏んでしまったんですね。だからきっと、コノヤロウとひっぱたかれたんだと思います。それで、気が付いたんです。
Q:そのおじさんは、もう動けなくなっていたんですか?。
A:おそらく死んでしまったでしょう、火傷で。もうまわりは火傷と死体でいっぱいでしたから。それで結局、その人にひっぱたかれて気がついて、アッと思ったら妹がここにいて。そのとき、まわりは何か暗いのです。暗いというのは、ちょうど火がおさまった頃で、電車通りを見ますと、火がそちらから来て、家が燃えて焼け落ちると火が消えると思ってましたから、それが焼け落ちてそれで助かったなと思いました。何時頃かはわかりません。夏ですが、暗かったんです。ともかく暗くて、真っ黒なんです、一面が。それで、ずっと妹と立っていて、下で助けてと女の子の声がするんです、みんなその上に乗っているのです。助けてあげればいいのにと思ってもこちらは子供ですから。そんな記憶があります。
Q:そうしたら、2時頃から夜になるまで夢中で走り回ったのですね。
A:はい、そういうことです。それでわたしも妹も火傷一つしないのです。手も出て半ズボンだったんですが。それで、明るくなって見ますとすごい人なんです。真っ黒けの死体がずっとありまして。翌日の 2日ですね。それで助かったと思ったら、あちこちで南無妙法蓮華経とか、南無阿弥陀仏などの声が聞こえて。それと、誰か人を探す声が聞こえて、でもあまりいませんでしたよ。何人か人がいましたが、そういう人は朝被服廠に入って来た人だったんですね。で、わたしたちはそのとき気がついてからあたりを見ますと、そこに電線を巻くコイルがあり、それが燃えていました。その向こうにおふくろが立っているんです。おふくろが妹を抱いて、わたしのほうを見て、坊や!と言われてハッと思い、おふくろがいると思いました。そして、そこに行こうと思っても行けないんです、何か下に黒いものがいっぱいあって。それでもやっとおふくろのところに行きました。その頃は火はほとんどおさまっていた頃でした。姉2人は安田公園という、いまは本所の公会堂になっていますが、その中に石橋があり、その下に2人で入って助かったんです。そこをちょっと過ぎると黒焦げの死体が一杯なんです から、運ですね。家は全員助かりました。近所はほとん全滅で、どこに行っても木の名札が立っていまして、誰誰、一家全滅となっていました。おふくろは、2番目の妹を抱いて、赤ん坊ですから。赤ん坊を背中に背負った人は、みんな赤ん坊が死んでしまいました。抱えたのは助かったのです。それに母親はケガもしないし、どうしたかわかりませんがとにかく助かったのです。
Q:お父さんも、最後には被服廠に入ったのですか?
A:はい。被服廠に最後に入ったとき水道管が破裂しまして、水がずっと上がったんです。そこは、荷物が濡れるので人が置かなかったので、そこへ飛び込んだのです。なにか、膝まで水があったようです。 そこへしゃがみ込んで、いま死ぬかいま死ぬかと思っていたといっていました。そのへんでもだいぶ死 んでいます。水が蒸発しますから。死んだ方というのは生きたまま火をつけられますから、みんなこうやって死んでます。みんな脱糞して死んでます、全部そうです。今度の空襲の時でも死んだ方は、みんなこうやって死んでます。ちょっと違ってます、空襲の時は、苦しくないんじゃないですか。ガスか何かで窒息して。ともかく真っ黒焦げの死体ですから、男も女もわかりません。山になっていました。何重にも重なって。あんなに狭いところで4万人死んでますから。
Q:重なって死んでいるというのはどういうことなんでしょうね?
A:結局、一人が転ぶ、そこへまた転ぶ、火がついていますから。とくに、線路のところは折り重なって死んでました。トロッコのところです。それで、下にいた人で助かった人もいるのです。転んで気を失ったんですね、そこへ人が乗って、上の人は真っ黒焦げになってしまった。それが、朝起きたら褌一つになってしまって、背中は全部ひっかき傷だらけで。上に乗った人が苦しいからでしょう。でも助かりました。
Q:それで1日の夜ですが、その夜はお母さんと被服廠のあたりをさまよっていたんですか?
A:母と会ったのは、明け方です。まだ暗かったです。火が燃えていたので見えたわけです。おふくろが立っているのがみえました。まわりは暗くて、そこだけ火が燃えていて、ちょうど見えたのです。観音さまのようでした。
Q:さっき、被服廠で生き残った人たちが、南無妙法蓮華経とかいっていた話がありましたが。
A:そうですね、南無妙法蓮華経、南無阿弥陀仏とかあちこちで聞こえましたが、それからしばらくしてから、人を探す声がしました。それほどワ−ワ−いうほどではありませんでした。それで、私たちがどうして助かったかというと、一つわけがあるんです。父が足袋を履かせてくれたんです。みんな集まって被服廠へ行くことになって、タンスから足袋を持って来まして、みんなに足袋を履かせたのです。足袋を履いたおかげで助かったんです、あれは脱げませんから。靴だとすぐ脱げちゃうんです。足袋のおかげで下に何があっても飛んで歩けたのです。裸足だったら熱いしケガもするし、足袋のおかげです。
Q:お父さんは、なぜ足袋を履かせたんでしょう?お幾つでしたか?
A:どういうわけかはわかりません。わたしと30才違いですから、41才ですか。まだ血気盛んです。工場もそこと、ほかに鋳物の工場とか2〜3持っていました。それも、全部焼けてしまいました。父が一代で造ったものです。結局、第一次世界大戦で儲けたらしいです。三ノ輪に伸鉄工場ありまして、これも親父が山形の金持ちから頼まれて共同で造ったものですが、鉄を伸ばす方の伸鉄です。そこへ4日の日から行って、一時住みました。ですから、震災があったときには高いところへ登って、どこへ避難するかをよく見て、火のないところへ避難するのが一番良いと思います。それと足袋を履くことです。ですから、何も足をケガしないし、ただ困ったのは目が開かないんです、埃が全部入って。目をあけていると煙で痛くなって、とにかく目が開けられない。ともかく凄いものでした、ケガ人だらけで。でも、わたしと妹はケガ一つしません。姉と親父は少しケガしたようでした。
Q:この南二葉町で、一家全員が助かったというのはほとんどないんではないですか?
A:はい、近所では家だけです。まわりの家も全部壊れてしまいました。被服廠へ行くまでのあいだも、壊れた家がだいぶありました。当時は蔵がだいぶありました。石蔵ですが、そういうのはだいたい助かっていました。木造家屋は全部壊れました。それに道路が狭いので、一軒壊れるともう出られません。後で聞いた話ですが、家の近所に大工がおりまして、そこの息子から聞いたのですが、砂町にお稲荷さんがあって、そこに大きな銀杏の木があるのですが、気が付いたらその息子はその木に引っ掛かっていたというのです。被服廠から飛ばされたのでしょうか。それで下着が何もなくなっていて、体中傷だらけでパンツか褌か知りませんが、それだけしかなかったそうです。あとで、その息子がこんな傷だらけだといってましたので、本当の話だと思いますが。20幾つくらいの人ですが、そんなのは珍しいです。
Q:そのときは、凄い旋風で飛ばされましたか?
A:はい、わたしの兄は一緒にいたところから飛ばされまして、安田の池に落とされました。小さいときから親父が泳ぎを教えたものですから、落とされて端まで泳いで来て、そこから両国の駅まで行きまして、いまはもうないと思いますが、あそこに大きな堀がありまして、そこに御蔵橋という橋があり、その橋が落ちて向こうに行けなくて、そこから犬カキで向こうの岸まで行こうとしても、落ちた人が助けてくれといって足を掴むのだそうです。それで伝馬船につかまって上がろうと思っても、助けてくれと掴まれてなかなか上がれず、それでやっと駅に行って、そのときは駅は焼けなかったので、両国から浅草の観音様まで逃げて行ったということでした。その兄とは4日になって会えました。死んだものと思っていました。2日の日に小松川まで、わたしたちゾロゾロ歩いて行ったのですが、向こうに知り合いがあり、そこに行ってそこの離れを借りて、ケガ人も集まりました。その夜には朝鮮人騒ぎで、刀を持ったり竹やりを持ったり、寝ていられずそれは大変でした。そのあいだに地震がありまして、ですから庭に蚊帳を吊って寝たような始末でした。どこへ行っても朝鮮人騒ぎで、あまりいいた くありませんが、被服廠の中でも殺されました。2日の朝にはもう、朝鮮人とわかると殺されるのです。凄かったです。それで、朝起きて家族みんな集まってやっと助かったと思って、わたしたちが最初にいたところはどこだろうと行ったわけですが、そこにブロンズの置物のいいのがあったんですが、それは焼けてしまって切れていました。そばに手提げ金庫だとかいっぱい落ちていて、銀貨はみんなくっついてました。そういうのがいっぱいありました。そういうのを、助かった人は見ているだけですが、後から来た人が拾って行きました。それで銅のヤカンの中に入れた穴あき銭がいっぱい落ちていて、当時そういうのを集めた人がいたのでしょう、それを持って逃げたんでしょう、そういうのがいっぱい落ちてました。それでわたしたちの親もそうでしたが、銀貨が目の前にいっぱいくっついて落ちていても、欲も何もなく拾ったりしません。それで、安田公園へやって来ますと、行く途中で不思議ですが、こっちは全部黒焦げの死体でしょう。生まれたばかりの赤ん坊が、20人くらい並んで寝ているのです。なんであんなところに赤ん坊が寝ているのかと思ってますと、どこかの人が口に水をいれてや ると、目をパチパチとして、そして死んでしまうのです。その子たちはたいしてケガもしていないのですが、なんであそこに並んでいたのか不思議です。みんな死んでしまいました。それを見て安田公園に入りますと、木は全部真っ黒焦げで、井戸の中にも池の中にも死体がいっぱいでした。そこへ氷を持って来る男がいて、卵など食べているのです。用心のいい人だと見ていたんですが、それは両国の駅から焼けた卵をもって来て食べていたのです。ザラメなども食べていました。それは被服廠に行って助かった人ではなくて、朝よそから入って来た人だと思います。というのは、助かったと思ってもそんな欲なんかでるわけがなくて、どこかの立派な背広を着た年配の人がわたしくらいの子供の手を引っぱって来たのですが、そこでバナナを食べている人がいて、昔の金持ちはウオルサムの両蓋の時計を持っていて、その人がそれを出してバナナ一本と交換してました。ですから、助かった人というのは欲なんかあるわけないです。もう、助かっただけでうれしくて、ホッとした気持ちでいますから。時計などいらなくてバナナ一本のほうが大事なんです。
Q:被服廠で助かった人の話では、助かると万歳をやるといいますがどうでしたか?  
A:いいえ、万歳は聞かなかったですね。どこかではあったかもしれませんが、とにかく覚えているのは、南無妙法蓮華経と南無阿弥陀仏という声が聞こえました。
Q:小松川に行って、昼間被服廠の跡へ行ったんですか。
A:いいえ、4日の日に出て来たんです。4日の日に小松川を出まして、三ノ輪の工場が助かっているかもしれないから行ってみようというので、親父とわたしで先に出て行ったんです。焼け跡を見ようと行くと、そこにわたしの家から兵隊に行った男が軍服で向こうから来て、やはり心配で訪ねてくれたんです。助かって良かったと話をしていたら、向こうから子供がかけて来て、それが私の兄でした。親子が対面しまして、それで三ノ輪の工場へ行きましたら焼けないでありました。そこでは朝鮮人を使っていまして、当時は朝鮮人が捕まると殺されてしまいますから、警察に保護されていたようでして、それを貰い下げて来ました。年は15、6ですね。日本語は片言でした。そこの三ノ輪の工場で、震災のあとはしばらく暮らしました。私の親父はすぐ山形へ飛んでいって材木を買って来まして、一時は材木屋を若い者にやらせていました。そして工場をどんどん建てました。あそこにいたのはあまり長くないです。
Q:またもとの所へ戻って、ライオンの錠前を造ったのですね。
A:はい。それと、鉄を切るノコを日本で初めて作りました。それと、獣をとる捕獣器というトラップです、それも日本で初めて作りました。そのおかげで、金融恐慌とか不景気のときは全然ありませんでした、忙しくて。わたしの家はどういうわけか金には困りませんでした。いつも裕福でいたらしいんです。ですから、わたしが4年で震災にあって、6年のときには福島にスキ−に行ってましたから。
Q:震災にあって、また小学校へ行くのは10月か11月頃ですか?
A:小学校を建てるのは早かったです、バラックでしたが。4年生の翌年には行っていたと思います。クラスの友だちなんかもあまりいませんでした。よそから入って来た連中とか、転校してきたのがいたりして。昔の友だちなど一人もいませんでした。二葉小学校です。それが、また空襲で焼けました。あの空襲もすごかったです。ですからあの一帯は関東大震災と3月の空襲のときと、2回焼けているわけです。わたしの家も2回焼けています。
Q:わたしたちが先日話を聞いたIさんとは同級生ですか?ご存じありませんか、南二葉町33です。
A:いえ、知りません。南二葉町というところは、大日本インキというのがありますね、あれが川村インキといって町工場でやっていたのです。工場地帯です。いまは大きくなった会田エンジニアリングというのがありますが、あれも裏長屋でやっていました。ですからわたしの家の親父は、町会長になってくれ と言われてもいつも、学問がないからいやだいやだと言ってました。
Q:で、こちらにはいつ宮崎さんはお移りになられましたか?
A:ここへは、終戦後です。宇都宮に戦時中仕事でいまして、25年の春にこちらに買って越してきました。本所の南二葉町の方は相続税で売ったらしいです。残っているところに妹が2人、弟が1人住んでいます。元のはなくなってしまいました。戦災も南二葉町で受けたので、2度焼けています。不思議なことにこの安田公園がありますね、この通りを越して行くと隅田川に出るのですが、安田公園の左側の一部が全然焼けていないのです、震災では。どういうわけでしょう、いまも残ってますよ。ですからそこの中に入った人はおそらく助かったのでしょう。表通りに沿って、7〜8軒あるところは焼けていません。朝不思議に思いました、そこだけ残っているので。あの火事はいやですね。全部火が当たるのですから、熱いのかなと思ったら熱かったというふうで、それ以外熱いということは覚えていません。子供だから、大人のあいだで守られていたのでしょうが、でもふみ潰されたらおしまいですね。ともかく、 あの火は凄いです。へっついの中へ入ったようなものです。上から、大八車だとかタンスなどが落ちて来るんですから。焼けトタンは、ピュ−と音をたてて飛んで来るのです。それにぶ つかったら、首に穴があいちゃいます。あそこに学校を建てるのでクレ−ンが立っていましたが、あれが倒れたらどうなるのかと思いました。それがやっぱり倒れていました。結局、倒れた下にいた人は 白骨になってました。人間の心理として、地面よりちょっと低いとみんなそこに入るんですが、そういうところはとくにひどかったです。とにかく男も女も真っ黒ですから、何もわかりませんからね。ただ不思議に思ったことは、朝明るくなって母親と一緒にいてまわりは黒い死体でいっぱいで、見たら真裸で女の人が寝ているのです、女の裸を見たのは子供ですから初めてで、オヤと思ったのですが、家の母親が気の毒だからと何か布をかけてやりましたが、あの朝は風がありまして飛んでいっちゃうんです。着るものでもあればみんな持っていっちゃいますから、しかたなくトタンをかぶせてやりました。それが、真っ黒な死体の中で真っ白な女の人が裸で寝ているのですから、どういうわけでしょう。顔はかぶって死んでいるのでわかりませんが、若い娘でした。あれは剥ぎ取られたのでしょうか、不思議でした。
Q:本当に人生の無常ですね。被服廠に入ったときは、みんな助かったと悠々としていましたか?
A:はい。もうタバコを吸ったりしてました。そのあと砂煙がワ−ッと来て、タンスや布団の影にみんなよけていましたが、そのうち、いっせいに火がつきました。それで全部真っ赤になり、一瞬に荷物の中で焼かれたようなものでした。荷物がなければ良かったと思います。いまは荷物など持って逃げませんが、昔はタタミまで持って置いてありましたから。どの家も全部そうで、馬力の親方などは馬をつれて被服廠に入ってきましたから。それが、火で暴れましたが全部火で焼かれました。あの頃はみんな物を 大事にしてましたから。
Q:南二葉町に再び戻って来て、周囲の人はほとんど全滅でしたか?
A:はい、たいてい貸家に住んでいますから、もう帰ってきません。もう死んでしまってだれもいませんから。震災前に仲良くしていた友だちなどほとんどいません。兵隊が来て通るような板を置いてまして、そこを渡っていました。ともかく死体がいっぱいで、男は下を向いて死んでいるのです、女の人は上を向いて死んでいるのです。それで、腐ってしまうのです。体からガスが出てほっぺたや体は赤茶けてしまって。それがもういっぱいでした。板張のところを渡るときでも、いやな匂いで一杯でした。あの頃では何が落ちていても、拾う気にはなりませんから。よそから来た人がいろんな物を持って行ってしまうので、被服廠の中でも捕まった人もいます。わたしが朝おふくろといて、明るくなってくるとガサガサと音がするんです。死体がいっぱいあるところですが、何をやっているのかと思うと、手提げ金庫を壊しているのです。それを見ていたら、にらまれました。服装はちゃんとしてましたから、きっと外から入って来た人でしょう。指輪なども、乾燥してますから、指をポキンと折って取って行く人もいました。それを見ていました。
Q:震災の後ですが、町が変わったというか、道が広くなったりしましたか?
A:いえ、道は広くはなりませんでした。ただ、通りがあって横丁にはいると、本所は昔ドブがあったんです、ご存じですか?両国の青物市場がありまして、そこの前がずっと広い通りになっていたんです。いまも広い通りがありますが、昔のままです。そこにドブが通っていて、幅が2間くらいのものですが、木の橋が渡っていまして一年中水が流れ込んでいつも汚くて、勝海舟などもそこに住んでいたそうですが、その横丁に本所区役所、いまの墨田区役所があって、それが現在のところへ越したのですが、そこが小さい公園になっています。工場はそのあたりでは、わたしのところと前にはアルミニウム屋の工場がありまして、いまは理研なんとかになっていますが、それからトクホンってありますね、あれが裏長屋でやってました。いまは大きくなってますが、女工さんが4〜5人いて、通ると臭いななんて言ってました。それと、会田エンジニアリングも裏長屋でプレスか何かをつくっていました。さっきお話した川村インキは、いまは大日本インキです。そういったのがあちこちにありました。それで結局、そこを壊して建てたのです。震災後に戻って来ました。新興工場地帯で、金持ちが多かった んです。それと、落語家とかの芸人が多かったです。相撲の部屋もありました。家のそばはたしか伊勢が浜ですか、子供の頃のぞいてますとザン切り頭がやってまして、しばらくすると今度はチョンマゲを結ったのが出てきて、ザンギリがコロコロとチョンマゲにやられて、しばらくすると今度は立派なチョンマゲが出てきて、ポンポンやられてました。当時はうち風呂がありませんから、銭湯へ行くんです。銭湯で遊んでいると、相撲が弟子を4〜5人も連れて来まして、狭いところの真ん中に腰掛けて洗っているのです。4〜5人の弟子が洗うんですが、洗い方が悪いとひっぱたくのです。相撲ってイヤなものだと思いました。そのひっぱたいた親方が強いのかと思ってましたら、あまり強くなかったです。それは震災前ですが。相撲取りは震災後も部屋は戻ってました。震災前は夜店も出るんです。にぎやかでいいものでした。震災後もしばらくは出ていました。
Q:食料はどうやって調達されましたか?
A:あのときは、玄米のにぎりをにぎってくれました。色がついているのでお醤油でもついているのかと思って喜んで待ってたのですが、食べられません。それは、兵隊が来てだいぶにぎってました。焼けないところを通ると、炊き出しが出ていました。あまり食料には困らなかったです。逃げ回っているときは、そんな意欲はないですから覚えていません。ただ、水は飲みたかったです。朝、助かったと思ったときに何か長いもので水をやってる人がいました。わたしのところにきて水を飲むかと言うので飲むと言うと、長靴に水が入っていました。それを飲ませてくれました。飲んだらジャリジャリして、変な匂いがして、飲まなかったです。氷を持って来た人もいましたが、自分たちで食べているだけで、くれませんでした。バナナを食べている人もいましたが、金鎖と取り替えていましたし。助かったことで、やれやれと思って欲も得もありませんでした。
Q:行政の対応はどうでしたか?
A:軍隊がすぐ出て来ましたから。兵隊が来て、治安が維持されて、観音様のあたりでも朝鮮人が殺されましたから、巡査が上から切って剣引き鉄砲で兵隊がついたという話もあります、観音様の前でも。
Q:玄米のにぎりを配っていたのは兵隊さんですか?
A:いえ、町の人です。焼けない人が来てやったんです。でも、救援物資なんて別にありません。何もないです。ですから小松川からフトンを買いに行ったときに、それまで一枚1円50銭だったのが、5円になってました。親父が怒ってました。
Q:お母さんは、着物で逃げていらしたのですが、その後、逃げずらかったと洋服に変わったということは?
A:洋服になったのはおばあさんになってからで、ずっと着物でした。震災後も着物でした。わたしは、半ズボンで足袋をはいて、妹は浴衣でした。当時の小学生で洋服というのは少なくて、親父がハイカラで、注文して兄弟二人にお揃いで洋服を着せて喜んでました。ふだんみんな、学校へ行くのも着物です。木綿の筒袖の着物です。震災後は、貧乏な家庭では浴衣でしたが、だんだん洋服に変わってきました。あの頃、着物の配給などはありませんでした。ただ、地方からそういったのがきまして、ちゃんちゃんこの変なのを配給してくれました。田舎からの救援物資ですから、おかしくて着られませんでした。配給は逃げた先でもらいました。いまのように、着るものから食べるものからパ−とくることはありませんで、何もありませんから自力でやるほかはありません。
Q:お父さんは、もともと東京の方でしたか?
A:親父の先祖というのは新潟です。上杉謙信の家来だったと威張っていました。新潟の長岡で北越戦争のときの下っぱか何かで。お爺さんの代で東京へ出てきて、裕福な家らしく、東京へ勉強に出て来たのです。仲間の3人で来て、一人は有名な弁護士になって、一人は東京市会議長になったそうです。うちのお爺さんだけ、わけがあって勉強をやめて、神田で餅菓子屋をやって大当たりをして儲けたそうです。そこでいろいろな事情から悪い人に財産を取られて、親父は8才位から追い出されて苦労したらしいです。あの頃は、もともとお爺さんは奥村善太郎という名前だったそうですが、明治時代というのは戸籍がすぐ変わるそうで、それがいつの間にか、斉藤善太郎になって、今度は宮崎善太郎になって、当時は戸籍が勝手にかえられるそうで。いまはそういうわけにはいかなくて、あの頃はメチャメチャだったんですね。震災の体験はいやですね。今度の空襲も凄かったですよ。二葉小学校と言うのは木造でしたが、焼けて鉄筋コンクリ−トになったんですが、わたしが宇都宮から3月10日に東京が焼けるのが見えるんです。昼間でも見えるんです。ワ−と見えますから、すぐ近くが燃えているのか と思いました。で、12日に出てきたんです、母親がいますから心配で。そしたら、軍隊が出て来て大分かたづけたんですが、二葉小学校のところへ行きましたら、そこは3階建てですが、表道路に人が死んでいて、見るとここから脳が出ているのです。体はそれほど焼けているようではないんですが、頭の鉢が割れて脳が出ていましたし、これは大変だと学校に入って見ると煙が出ているんです。そこで、人が全部燃えているんです。先に燃えた人はしゃれこうべなって燃えているんです。そして、学校のプ−ルの中でも死んでいるんですが、それは体は何ともなくて防火服を着て浮いているんです。ともかく凄かったです。屋上へ上がって見ましたら、屋上のお稲荷さんは助かっていました、下は全部燃えても。ですから屋上にいれば助かったのかもしれませんね。家の親戚もあそこで死にました。可哀相に、子供を抱いて黒焦げになった人もいます。往来にいっぱいの黒焦げで。
Q:お宅には、震災の頃のものが何か残っていませんでしょうか?
A:前にはいろいろあったんですが、空襲でみんな焼かれてしまいました。家に置いたまま全部、書画骨董など焼かれてしまいました。ですから、何もないんです。