収録インタビュー・リスト
| インタビュー1 | 宮崎勝次氏(1990年7月21日) |
| インタビュー2 | 石上敏明氏(1990年7月9日) |
| インタビュー3 | 小櫃政男氏(1990年9月3日) |
| インタビュー4 | 平山昌次氏(1990年10月15日) |
| インタビュー5 | 名和喜代さん(1990年10月3日) |
| インタビュー6 | 鷲尾菊江さん(1990年7月27日) |
| インタビュー7 | 古谷孝一氏(1990年7月16日) |
| インタビュー8 | 小宮寛氏(1990年7月26日) |
| インタビュー9 | 田中考二氏(1990年9月5日) |
| インタビュー10 | 増井峰雄氏(1990年10月23日) |
| インタビュー11 | 平山あささん(1990年7月6日) |
| インタビュー12 | 長島ミツ子さん(1990年7月7日) |
| インタビュー13 | 関川あい子さん(1990年8月1日) |
| インタビュー14 | 大沢千代さん(1990年7月6日) |
| インタビュー15 | 関戸惣一郎氏(1990年8月6日) |
| インタビュー16 | 喜多村タカさん(1990年8月18日 |
| インタビュー17 | 山崎喜作氏(1990年8月26日) |
| インタビュー18 | 山鹿清一郎氏(1990年10月22日) |
| インタビュー19 | 長谷部数子さん(1990年10月12日) |
| インタビュー20 | 稲垣正人氏(1990年10月5日) |
1923年9月1日午前11時58分に発生した関東地震(北緯35.2度、東経139.3度、マグニチュード7.9)は、地震後各所から同時多発した火災によって、東京市に壊滅的な被害をもたらした。
次に掲載するのは、この関東地震を直接体験した人々の手記と、それにもとづいて筆者がここ数年実施してきたインタビューの抄録である。その多くは、当時6歳から20歳前後だった人々の体験であるが、すでに70年近くの月日が経っているにもかかわらず、かれらの記憶は驚くほどはっきりしていた。おそらく、かれらにとって、関東地震は忘れようにも決して忘れられない強烈な体験だったからであろう。
ここでは紙数の関係から、地震被害がとくにいちじるしかった本所区・深川区の震災体験者、それも本所の陸軍被服廠跡地と隅田川べりで、九死に一生を得た人たち10人に話をかぎりたい。
その前に、まず関東地震の概要、および陸軍被服廠跡地と隅田川べりにおける被害や避難状況の概要を、以下に記しておく。
関東地震の被害をざっとみると、東京市では倒壊家屋は比較的少なかったが、地震の発生したのがちょうど昼食時だったことから、ガス・かまど・七輪などからの出火、あるいは薬局や大学における薬品の落下などが原因となって、市内各所で同時多発火災が起こった。ある記録によれば、東京市内の出火点は163ケ所。このうち、79ケ所はすぐ消し止めたが、残りの84ケ所からの出火が、おりからの強風にあおられて、またたくまに燃え拡がっていった。地震から2時間後の午後2時には、すでに、京橋・日本橋・麹町を中心に、東は本所・深川、北は浅草、西は本郷、南は芝の各区にわたって火災はますます拡がり、それからそれへと火の手を延ばし、黒煙が市の大半を包むようになったという。また、地震によって屋根瓦の剥離した家屋への飛び火も70件を越え、これらの火災が各所で合流し、総計58の火系となって、市内をなめ尽くしたのであった。地震とそれに続く火災によって本所・深川・浅草・神田の各区がほぼ全滅となり、人的被害は、死者・行方不明者合わせて6万8000人にのぼっている。
このように、関東大震災では地震直後から各地で火災が発生し、しかもそれが急速に燃え拡がったため、麻布・牛込・赤坂・四谷・小石川・本郷など少数の区を除いて、多くの市民は避難することになった。もちろん、出火の数や火災の延焼速度のちがいがあるので、避難開始時期は地域によって異なっていたが、避難民の大半が車に家財道具を満載し、あるいは大きな荷物を肩に背負って火炎を逃れ、避難場所へと向かった。けれども、その多くは何の見通しもなく、ただ右往左往するばかりだった。火に追われてひたすら逃げると、その先にまた火がある。だれかがあっちへ逃げろと叫ぶと、群衆となっていわれるままに駈けだす、という状態が各所でみられた。避難についての確かな情報がないから、ただやみくもに逃げ回るばかりであり、その結果、ただ幸運な人々だけが生き残ったのである。
避難者の多くは最初、なるべく近くの避難地を選んだ。そこで、ちょっとした広場や公園はすべてはち切れんばかりの人となったが、やがてそこも危険となると、人々は、また逃げ出してまた止まりまた逃げ出すといったように、何度も何度も避難地を変え、その結果、荷物を失ったり家族が離れ離れになるなどして、思わぬ悲劇を生じたものも少なくなかったという。
こうした避難地のうち、もっとも大きな悲劇に見舞われたのは、本所区横網町の陸軍被服廠跡地であった。ここには、本所・深川方面から火に追われて3万数千人の人々が押し寄せ、地震から3時間が経過した午後3時頃には、2万坪以上ある広場が避難者でいっぱいになった。しかし周囲に延焼し、四方から火が襲ったため、午後4時頃には、広場に猛烈な火災旋風が発生した。また、避難者が運び込んだ膨大な荷物に飛び火し、それが人々の衣服や髪の毛に燃え移って、まさに生き地獄のようなありさまになってしまった。火災は、午後8時ないし9時頃にはようやくおさまったが、そのときには死者は3万8千を越え、一方、生存者はわずか200名にすぎなかったのである。
東京朝日新聞社編集の『関東大震災記』によれば、本所区は、地震とともに若宮町と森下町から発火し、さらに向島も火災となって、たちまち火の海に化したという。そのため、避難民は火に追われて電車路を避難し、最後には被服廠跡地に集まることになった。また、深川区民も同様に、追いつめられて被服廠跡地に集まったので、広場は何万とも数知れぬ避難民と荷物で充満してしまった。
そのうち、午後4時頃になると、猛火のためにすさまじい旋風が被服廠内に巻き起こった。旋風は、まるで悪魔のようなうなりをたてて避難民に襲いかかり、木材も車も家財も人も火のかたまりとなって、宙に舞い飛んだ。また大火焔は人と荷物をひとなめにし、断末鬼の叫びが、閧の声のようになって廠内に響き渡った。しかし、こんな場合にも生きようとする人間の努力は恐ろしい。場内の中央部にあったわずかばかりの水溜りの中に全身を浸し、その後で蒲団をかぶったり、あるいは折り重なった人々の下敷きになって、九死に一生を得たものが200人ばかりいたということである。この恐ろしい旋風と火災は、夜の8時頃になってようやく鎮静したが、そのあとには、3万2千人以上の人間が、累々たる死体となって残されたのであった。
一方、本所・深川の人々の一部には、被服廠跡地に行かず、隅田川べりに避難した人もいた。地震火災時の隅田川べりの状況については比較的くわしい体験記が残っているので、それを以下に紹介しておこう。筆者は、当時厩橋税務署に勤務していた一官吏である。
おそらく1日の午後3時頃であろう。かれは火災に追われて、隅田川の舟に飛び乗った。かれが川の中から蔵前の方を見ると、浅草から日本橋方面へかけて、空も地面もただ火と煙だけであった。両国橋を逃げ渡る人々は、ただ真っ黒いかたまりが長く続いて、うごめいているようにしかみえなかった。しかし、本所方面の火事はまだ大きくなかったので、かれの乗った舟は安田邸の前につけようとした。そのとき、安田邸の川岸を逃げていく人波はまったく猛烈で、着のみ着のままで走る人、荷物を背負えるだけ背負ってあえぎあえぎ走る人、子供を真中に夫婦で引きずり走る人、子供を両脇にかかえて走る人、老人や病人を背負つて走る人、けつまずいて後からくる人に踏みにじられる人、みな真っ青な顔をして口々に何事か大声で叫んでいるその光景は、形容の言葉もないほどだった。
かれがやっとの思いで岸にあがったとき、4、5匹の暴れ馬が人々を蹴倒して、猛烈な勢いで通り過ぎ、何人かがこの数匹の馬に蹴られて死んだ。そのうちに、火は本所全部に回ったのか、いったん向島方面へ逃げた人々が、急にワァッと叫びながら逆戻りして来た。そして、安田邸の前で、両国方面から逃げて来る群集とみるみるうちに大衝突をして、何ともいえない大混乱となった。男も女も、力の弱い者はたいてい踏み倒され、踏みにじられ、川に落ちるものは数知れず、その落ちた人々はみな川下にどんどん流されていった。水の中でもがきながら、助けてくれ−と絶叫するようすは、地獄そのままであった。そのうち、これらの人々は、誰言うとなく「被服廠へ、被服廠へ」と叫び出したので、その多くは安田邸の横を折れて、なだれをうちながら、引き潮のように被服廠跡へと走って行った。
ここで一緒に走って行けば、かれもまた猛火の犠牲になったであろう。しかしこの官吏は、まだじっと安田邸の門の下にとどまっていた。そして、ふと川のなかが安全かもしれんと思いたち、川の方へ走り出した。このときまで、群集はただ陸地の安全な所へと目指していたので、川のなかは案外に混雑していなかった。背が立つくらいの深さの所は、かなりの人がひしめき合っていたが、かれは、その人たちを押し分けて、川の真中へと泳ぎ出し、舟で避難していた人々のなかへ割り込んだのである。
かれが舟のなかに身をおちつけた頃から、被服廠方面の火勢は急に猛烈となり、烈風のような火のために、川のなかにいてさえ耐え難くなった。今まで岸にいた人々が、うろたえたように助けを呼んで叫んでいた。また、被服廠方面からも人の叫び声が、火の音、風の音、物の焼ける音に混じって、まるで大嵐のように聞こえてくる。隅田川に押し寄せる火の嵐はいっそう猛烈になり、両岸から直径20〜30センチにもなる火の粉が、雨の降るよりも激しく落下してくる。舟に乗っていた男も女も、もはや耐えきれず、身体は川の水の中に浸し、手は舟のへりをつかまえて、熱くなれば水の中にもぐりもぐりしている。火の粉ばかりか、真赤になつたトタン板や火になつた電柱や戸板なども、ヒユウヒユウと落下し、頭や顔を打たれ、あっという間に手を離して、どんどん流される人々も数知れなかった。川の真中にいながら水は少しも冷くなく、まるでお湯に入っているように熱かったという。
両岸では、女子供が髪や着物を火に燃えつかれて、泣き叫びながらバタリバタリ倒れていく。真赤な火を背景にして、火焔に包まれながら倒れる黒い人影は、ちょうど影絵を見るようであった。川岸につかまつて水の中に浸っていた人も、川岸近くの舟に乗っていた人も、すでに焼け死に、ついに舟は跡かたもなく焼けて流されてしまった。かれの舟でも、餓えと疲れのためにだんだん気が遠くなり、知らず知らずのうちに手を離して、一人また一人と流され、最初は20〜30人もいたのに、いまはわずか2、3人になってしまった。かれもまた、うつらうつらと夢心地になりかけたが、そのたびに隣の人に顔をピシヤリと打たれてハツと気がつくありさまだった。
どのくらい時間がたっただろうか。やがて両岸の火勢が衰え、今までにない涼しい風が吹き出した。かれをふくめて生き残った人々は急に元気づき、蔵前の方に舟をつけた。そして、かれが岸にのぼってみると、あたり一面焼け野原。もはや、どこがどこやら少しも見当がつかなくなっていたという。
まず、前節の2でふれた陸軍被服廠跡地で生き残った人たちから紹介していこう。最初は、宮崎勝次さんの体験。宮崎氏は当時9歳だったが、本所区南二葉町で地震に遭遇した。地震後、火災の煙ときな臭いにおいが漂ってきたころ、一家そろって被服廠跡地に避難し、そのうちに妹と2人だけになってしまった。荒れ狂う火災旋風のなかをその妹さんと無我夢中で逃げ回り、ふと気がついたときには火災がおさまっていたという。
次は、石上敏明さんの体験。前記の宮崎氏と同様、石上氏も当時9歳で、場所も同じ本所市南二葉町で被災した。ただし、両氏は顔見知りではない。石上氏の自宅は地震とともに崩壊したが、その前に間一髪で家から飛び出した。その後、祖母と母と3人で被服廠に避難したが、すでに避難者でいっぱいであり、やむを得ず水たまりに陣取ったが、結果的にはこれが幸いした。
「泥水とトタン板 石上敏明(本所市南二葉町33)
当時、私は9歳でした。突然「ゴオ−ッ」という異様な地鳴りがした。祖母は安政大地震の経験者であり、誰れよりも早く表へ飛び出していった。父は母と私を抱えて、タンスに寄りそっていたが、様子を見て「今だ逃げろ」と云われたが、二度ばかり転んでやっと表に出た、その瞬間に家は大音響と共に倒壊した。木造家屋はミシミシと音を立て、屋根瓦は落ち続け、私達の避難を妨害した。
父は、在郷軍人で、町内の人の救出作業に行き、残された私達三人は、父に命じられた被服廠に向ったが、道路は人と荷車で一杯で前に進めない。屋根の上で抜刀した巡査が、「荷物は捨てろ」と叫んでいた。数万坪の被服廠跡は人と荷物で既に満員であった。僅かに、前日の雨で水が溜ったところが空いているだけである。私達はそこに陣取ったが、今にして思えばこれが幸したのでした。時間は不詳ですが、突然、竜巻が起った。この時、荷物と人間が空中に舞い上るのを見た。火勢は一挙に荷物に火がついたのです。私達は、目の前の水溜りに飛び込みました。私の膝あたりの深さの水溜りの底を祖母は懸命に掘り続け胸のあたりまで掘り下げるという超人的な作業をなしとげた。火は熱く泥土と化した水に、顔を入れたり出したり、赤く焼けたトタン板が飛んできて何人もの人々が死んでいった。その板を頭に乗せて火の粉を防ぐが、すぐ熱くなり、水に浸しては頭に乗せる。これを何十回と繰り返し続けているうちに、誰かが「火は下火になったぞ」とどなっているのが聞えた。しかし、一度、下火になった火勢は再び盛り返し、又も死闘が続いた。
それから数時間経った頃「万歳、万歳」と喚声が挙りました。周辺は暗く夜になっていた。私達はどうして助かったのか説明は出来ません。濡れねずみの身体を抱き合っていました。やや落ち付きを取り戻してみると、周辺の水溜り以外のところには焼死体が類類としており、焼けてふくれあがった様は人間とは思えない程です。祖母と母は、煙で目が見えない、幸か不幸か、私だけが目が見えたので、私達は、少しづつ移動して被服廠を出ようとしましたが、途中で半死の状態の人が「水を呉れ、水を呉れ」と私の着物をつかんで離しません。濡れた着物をしぼって泥水を口に当ててあげましたが死んでしまいました。被服廠の廻りの溝にも焼死体が積み重なり見るも無惨の光景でした。
私は、目の見えない祖母と母を連れて安田庭園に落ち付き、二人の目を冷すため、近くの氷室に氷を取りに行きました。この時の氷は、まさに値千金のものでした」
A:震災で一番倒壊したのは、2階屋が多かったですね。次に平屋という感じ。
Q:そうしますと飛び出して、それからどこか広場か何かへ?
A:南割下水という、堀割の下水がありましてね。それから、こちら側の前橋から行くのが北割下水といいまして、北と南に割下水がありまして、堀割があったんです。子どもの頃でよくわかりませんが、よく水が出たんです。その水を防ぐために、墨田川に流すべき堀割を作ったんですね。幅4メ−トルあるかないかのものが、そこの13軒道路といいますが、いまでいうと4車線のそこが広いものですから、そこのどぶのところへみなさん避難したんです。
Q:かなり避難者が多かったんですか?
A:もうわれ先にと被服廠に逃げ込む連中と、一時そこへ避難された人々と、大別して2つの人たちですね。
Q:町内にけが人なんかかなりいて、お父さんがそちらに行っちゃったんですか?
A:ええ、在郷軍人の役員をしていたものですから、家族をほっておいて町内の人の救出に飛び出して行って、わたしたちは被服廠に逃げ込めと、そういう指示を与えて、自分は救援に回ったんですね。
Q:2〜3日前にお話を聞いた人は、もうけが人がひどかった、かなり戸板に乗せられていたというんですが、そのへんはどうでしたか。
A:倒壊の下敷になった人をひっぱり出して、割下水の通りに、戸板に乗せて運んだのを見ておりますね。
Q:そのときは、まだ火災は起きませんか?
A:はい。もう、ボツボツと燃え始めてましたね。やはり昼時ですから、当時ははだか火で炊飯をしていましたから、そういう関係で発火するのが早かったんじゃないか、と思いますがね。もうボツボツと、要所要所に火がチョロチョロと燃え出したのを記憶しておりますね。
Q:お父さんが、被服廠に逃げろとおっしゃったんですね。
A:ええ。父は、被服廠が広い空き地だから、あそこが一番安全だと思ったわけなんですね。ところが、わたしたちが逃げ込んだ頃には、もう時すでに遅しで、前に逃げた連中が荷車で荷物を満載して、優先的にいい場所を占領してましてね。わたしたちが被服廠に着いたのは、満員にほぼ近かったですね。
Q:なるほど、それは何時頃ですかね?
A:時間にしますと、あそこに逃げたのが1時ちょっと過ぎくらいじゃないですか?
Q:1時間くらいで満員ですか?
A:ええ。ものすごかったですね。
Q:もう、みんなほとんど荷物を担いだり、荷車ですか?
A:当時の巡査はみんな、当時はサーベルを持っていまして、あれを抜刀しましてね。ちょうどその青物市場、いまの「やっちゃば」といいましてね、あの向こう側にレンガの古い建物がありました。東電の 建物でしたが、あの前に共同便所があったんです。割下水の道路に面して、その上で抜刃して、「荷物 を捨てろ、荷物を捨てろ」と怒鳴っているのに、いっこうに効果なしでね。災害地点から荷車で運んで いますからね。あれが、災害を大きくした一番の原因じゃないかと思いますね。
Q:警官が、捨てろ捨てろと言っても聞かないんですか?
A:ええ、もう全然ですね。ああなってくるとパニックです。手に持っているものはいいんですよ。ところが荷車で入ったり、ものすごいリヤカーに乗せるとか、そういった荷物を数多く防御しようとしたらしいんですけど、時すでに遅しで、ああなってくるとダメですね、言うことを聞きませんね。
Q:数日前に聞いた人の話ですけど、遠くから「被服廠に逃げろ、被服廠に逃げろ」という声が、どこからともなく聞こえてきたというんです。そんなことはありませんか?
A:まあ、あの数万坪の奥行きですから、誰が考えても、あそこならという感覚があったと思いますね。ですから、誰とはなしに被服廠へという感覚だったんじゃないか、と思いますよ。別におまわりさんが逃げ込めということはなくして。
Q:当時、もし地震があったらここへ逃げるんだ、なんて話してたんですか?
A:そういう指示は、事前にはありません。全くありませんでしたね。
Q:家族のあいだでは、地震の話はあまりなかったですか?
A:ないですね。で、子どもの頃には、その空き地が一番子供の良い遊び場だったもんですから、なかのようすはよく知っているわけです。
Q:時々いらしたんですね。
A:ええ、よく遊びに行きましたからね。
Q:それで、なかのほうに入ったと。
A:前日にちょっと低気圧がありましてね、ものすごく大雨が降ったんですよ。それで、ちょっと中央から「やっちゃば」寄りのところに、数百坪くらいの水溜りがありましてね。その深さが、だいたい20センチメートルくらいですかね。それくらいの水溜りが数百坪もありましてね。その回りが湿地になっておりまして、そこだけしか空いてないんですよ。あとは全部満員でしてね。わたしは逃げたのが遅かったもんですから、ちょうどその湿地帯に何か板切れ持ってきて休息した、という感じですね。
Q:板切れに座っているんですね。
A:ええ。
Q:それで、被服廠に着いたとき、もうこれで安心だと思うわけですか?
A:いちおうね。ずいぶん大勢人がいるなと驚いたことが1つと、すごく荷物が多いなということと、後はまあこれで幾らか落ち着けるのかな、ということを最後に感じましたけど、子供心にね。
Q:この頃は、まだ空は暗くなっていないんですか?
A:わたしたちが入って、ほんの30分くらいしたかなと思ったら、もう真っ暗になりましたね。
Q:ははあ、それは火災の煙ですかね。
A:結局、何ていうんですかね、ちょうどこの新聞紙に燃え移る瞬間の、太陽の光線を遮る煙というんですか、そんな感じのものじゃないと思いますがね。そしたら、竜巻が起こりましてね。
Q:石上さんが被服廠にお入りになったのが、地震の1時間後とおっしゃってましたけど、その頃はもう南北には火はチラチラと。
A:チラチラじゃなくて、ほとんどもう燃え始めて。
Q:そうすると、この本所のあたりはかなり早い時期にもう燃えたんですか?
A:ええ、もう乾燥してましたしね。それと夏でございますから、火の回りも早かったです。木造ですから、よけいに火の回りが早かったんですよね。
Q:やっぱり、家が倒れてそこから火がでたんですかね。
A:だと思いますね、現場まで見ておりませんからよくわかりませんが。被服廠の正面とこちら側と。両国のほうは燃えてなかったんですが、二方に囲まれたというんですか、二面からの火が燃え移ったという感じじゃないですか。竜巻の起き方も、そういう感じで起きたんじゃないかと思うんですがね。
Q:火事のあいだは生温かい風が吹くといいますが、そんなんじゃないですか。すぐ竜巻ですか?
A:ええ、すぐ竜巻ですね。もうまるで、火がボッとつくという感じですね。全身にガソリンをかぶっていて、火をつけるのと一緒ですね。ボッといった瞬間ですね。
Q:相当カラカラなんですね。竜巻でトタンが巻き上げられたり、馬が浮き上がるほどすごいですか?
A:ええ。結局、付近の家が燃えはじめて、トタンの家もありましたからそれが竜巻で真っ赤に燃え上がって、それが降りてきてそれで亡くなってますよね。
Q:なるほど。それで、その湿地帯のところ自体には竜巻は来ないんですか?
A:来ましたよ。全部来ましたけれども、同時にわれわれはその水溜りに飛び込んだ。その瞬間に、子供心にうろ憶えに覚えているのは、母親に「お母さん、着物が濡れるけどいいか」なんて余計な心配していたのが、いまだに記憶に残っていますよ。
Q:20センチくらいの水溜りに?
A:そうですよ。
Q:体を伏せるわけですか?
A:ええ、それを浴びたりですね。おばあさんが、爪が駄目になるくらいに掘ったんですよね、それに水が寄ってきますから。それで、トタンを頭にかぶると、それがまた熱くなって水につけるとまたかぶる、という調子でね。そのへんから後は、ちょっと記憶にないですね、どうやって助かったのか。
Q:その水溜りにいた人たちは、みんなたいていそんなもんですか?
A:そうですね、それ以外の方法がないんじゃないですかね。ふとんが一番良かったですね。水に濡れたやつをかぶりますと、なかなか乾かないですからね。トタンはすぐ熱くなるんですよ。まずこのへんに火の粉をだいぶ浴びて、こう払ったんですけど。とにかく熱かったですよ、すごく。
Q:すさまじい経験ですね。それで、ハッと気がつくともう夜なんですか?
A:もう時間的な感覚はありませんね。とにもかくにも幼心に残っているのは、一番最初の「万歳、万歳」という奇声を発した人がいたんです。大勢で、火が消えたぞ万歳ということですね。それを憶えてたんですが、すぐ消えちゃったんですよ、その声が。というのは、また火勢が勢いを盛り返したんですね。それで、その次に万歳が聞こえたんですよ、その万歳の声のときには完璧に火が下火になったという感じがします。万歳という声が聞こえたのは、もう真っ暗でね。何を見てもわかりませんでしたけれどもね、明け方前でしたから。で、しらじらと明け方になってきてから、何か人間がうごめく声とか半死の方とか焼け死んだ方っていうのがチラホラ見えてきましてね。恐ろしかったですね、あのときは。
Q:そうすると、午後1時から明け方まで格闘しているわけですね。
A:そういうことですね。
Q:20時間くらい。そんなにいかないですかね?
A:17、8時間はそういう状態だったということですか。被服廠のまわりに掘り割があったんですよ、どぶみたいな。そのなかで助かった方がおるんですよね。いくらかのドロドロがあって、そのなかに浸かって助かったと。わたしの父がね、あくる日われわれも全滅という話だから死んだと思って半ば諦めて、でもいちおう捜しに来たんですが、そのどぶのなかにおばあさんがうずくまっていましてね。半死半生で下にずっと火傷していまして、それを助けたそうです。その助けられたおばあさんが、伏見宮のお乳母さん。これが後で大笑いの話になりましたけどね。
Q:そうすると、その湿地帯のところの人とドロドロの人だけですかね。
A:それ以外に助かった方はいらっしゃいませんね。
Q:そういうことは結局、後から入って条件の悪いところの人が大勢助かったということですよね。
A:まあ、好運の矢が当たったといってもいいんじゃないですかね。後から行ったほうが好運だったという、先に行ったほうがかえって悪かったという。
Q:で、おばさんとお母さんの目が見えなくなっちゃったとか。
A:ええ、煙とドロドブのぬかるみみたいになっちゃったですからね。それで、目と耳をやられて見えなくなったんじゃないですか。わたしだけが、偶然にも目が見えるんですよ、不幸中の幸いでしたけれども。まあ、それだけよけいに怖い思いもしたけれども、目が見えるから。
Q:死体をかきわけながら、安田庭園へ行くんですか?
A:そうですね。安田庭園に行くんですが、その途中が、子どもの頃に憶えている時間でもちょっとかけて行けば5、6分で行かれる場所に、1時間以上もかかっちやうんですよ。ということは、歩いているとつかまるんですよ。「水をくれ、水をくれ」っていってね。それで、着物がグショグショですから 「おじさん、口開けな」っていうと口を開けて、ぼくが絞って入れてやると亡くなりましたね。火傷に水は、逆にいけないんですってね。
Q:歩いているとつかまっちゃうんですか?
A:そうです。裾をつかまえまして、「水をくれ、水をくれ」といいましてね。
Q:5、6分のところを1時間もかかっちゃうんですか。
A:で、氷倉がすぐそこにあったんです。氷倉は子ども心によく知っていましたから、氷をかいちゃあ持ってきて、母とおばあさんの目を冷やしてやったんです。当時は、池の水のなかにはもう水死体がゴロゴロありましたからね。母たちは見えないから、その水で顔を洗っていましたけれどもね。
Q:そのときにお父さんに会うんですか?
A:ええ、そこへ父が捜しに来たんです。もう被服廠に入って完全に死んだと、諦めの眼で入ってきましたね。「石上、石上」と怒鳴って入ってきましたら、まさかと思ったのが生きてましたから。不幸中の幸いでしたよ。
Q:感動ですよね。大変な経験ですよね。それで、お父さんといっしょにどこへ行かれたんですか?
A:安田庭園にいたのは数時間だと思いますね。ものを食べてませんから、空腹なんていうことは常識的に判断できるんですけど、全然おなかがすいてないんですよ、緊張してましてね。それで、町屋のほうが燃えてないからあつちへ行こうということで、衆議一決でトコトコと歩いていったのを記憶してますね。どこで泊まったかは定かではありせんけど。
Q:それは家族だけで?
A:家族だけです。
Q:あちらに親戚があるとか?
A:いいえ全然関係ないです。ただ、燃えてないからということで。何か食べ物があるだろうという感覚ですかね。
Q:そのときは野宿でしたか、どうなんでしょうかね。
A:そのへんのところが、わたしは家のなかに寝たような記憶がありますけど。どなたの家かは記憶はありませんけど、雨露がしのげましたから。とにかく屋根があったということです、家のなかですよね。
Q:そういう避難の過程で、例の朝鮮人の話とか聞きませんでしたか?
A:ついてから1日くらいたってから、父親が軍服を着ておりますから、やはりその集団のなかでリーダー格になりまして自警団を作りまして、警備にあたったんですがね。そのときに、棒とかそういうものを持ってましてね、それに血のりがついているのをもって帰ってくるのを見まして、子供心にそれが恐くてね。大人たちの話を聞いてますと、いまだにわたし記憶に残っているのは、誰何するんですね、夜。韓国の人たちは濁点がでませんから、「オレた」と言ったら命がない、「ボクた」もダメなんです。「ボクだ」というと助かったんですが。まあそのような話をちょっと憶えていますね。
Q:発音で区別しちゃうんですね。そのほかの流言蜚語は聞きませんですか?朝鮮人の話のほかには。
A:そうですね。小さな子供の頃のことですから、ものを食うことが一番心配だったですね。一番不自由したのはやっぱり水です。
Q:水。それこそ被服廠で一晩中熱いところにいたら、ノドがカラカラでしょう。
A:それで、安田公園の池の水を飲みました、血をかきわけして。母たちもガブガブ飲んでいましたね。いまなら下痢するでしょう。
Q:なるほど。それで、荒川から何日かして戻ってきて、それからどうしたんですか?
A:わたしの記憶によりますと、わたしの父がさきほどお話ししました溝で助けたおばあさんですが、その方が伏見宮のお乳母さんで、わたしの父は竹内金庫ですから、竹内金庫の裏でバラックみたいのを建てて、そこで焼けた鉄のさび落しとかを家族でやっておったんですよ。そこへ、菊の御門のついた車が迎えにきまして、ここに石上というのはおるか、というのを聞いて、何か家の父親が悪いことでもしたのかと思いまして、ちょっとドキッとしましたね。そういう話のいきさつで、伏見宮の別邸に3ヶ月くらいごやっかいになりました。ところが、宮家の生活が堅苦しくて、とてもじゃないけど下町の人間には不向きでして、そうそうに逃げ出しましたけどね。いまのホテルオータニのあのへんでしょう。着物なんか全部おさがりをもらいましてね。午前10時と午後3時に、当時のお菓子のおさがりがありまして、これが唯一の楽しみでしたね。
Q:そのへんは全然燃えていないんですね。震災のあとかたもない。
A:ないですね。夜になると、兵隊さんが剣付鉄砲をもって警備をやってまして、われわれは職人の出身ですから、夜になると新宿のほうは燃えてないで繁華街ですから、たまには映画がみたいということになりましてね。ところが、門限が9時でカチッと門を閉められちゃうもんですから。兵隊さんにおまんじゅうを買ってくると、闇で出させてくれましてね、顔見知りのもんですから。そんな楽しい晩もありましたよ。
Q:伏見宮の乳母さんがたまたまこちらにきてたんですか?
A:お宿下がりで。亀沢町に自分の長男の家があって、そこにおさがりになってるときに震災にぶつかったわけです。
Q:なるほど。偶然ですね。それで、3ヶ月伏見宮さまの別邸でお世話になって、お父さんは会社に行ってたんですか?
A:ええ、竹内金庫に。それから、父親は静岡市の出身なもんで静岡市に避難しました。芝浦から扶桑丸という当時2千トンクラスの船ですか。それに乗って清水港にいきましてね、清水港にあがったら「避難民、避難民」といわれて、埠頭でいろいろくれるんですよ。どこかの帰還者みたいにね。あそこで食べたハヤシライスのおいしさが、いまでも忘られないですね。
Q:で、静岡市内でお父さんはまた新しい仕事を探されるんですか?
A:いや、父親は東京に残りました。われわれだけ。で、避難民っていうんですか、向こうの小学校に上がってましてね。学校に行くたびに、みんなに避難民ってひやかされるのがいやでね。
Q:そういう立場の人は石上さんだけでしたか?
A:小学校ではわたし1人でした。
Q:それじゃあ、お父さんは東京でバラツクか何か建てて住んでいたんですか?
A:だと思いますね。どういう生活をしてるのか、わたしにもちょっとよくわかりませんけども。
Q:それで静岡にはどのくらいいたんですか?
A:静岡にはせいぜい1年いなかったでしょう。すぐに東京が恋しくなって、東京に戻ってきましたよ。そのときも、まだトンネルが要所要所で不通でして、汽車が乗継ぎなんですよ。何かトンネルがみんなダメで、そこまで汽車がくると、それからまた歩いて向こうの汽車に乗るっていう感じで、東京に戻ってきましたけれども。それで、いまの亀沢2丁目18番地、昔の南二葉町ですかそこに住みましてね。
Q:ふたたび戻ってきたときには、家は建っているんですか?
A:もう家があちこちに建っていましたね。小学校も復活しましたし。クラスのなかを見回しましてもほとんど死んでいましたからね、子供が。
Q:小学校2年生のクラスで、半分くらい亡くなっているんですか?
A:そうですね、男女合わせて1クラスしかできなかったですから。あとの2組はなくなったんですよ。
Q:震災前は何組あったんですか?
A:3組ありましたからね。男組と男女組と女組とありまして、それが全部合同で勉強しました。学校が亀沢2丁目のちょうど角だったんですが、いまの二葉小学校のちょっと向こうにありまして、その向こうに江東病院、その跡に仮設校舎を作ってわずか20〜30坪くらいの学校を作ったんです。バラック の家を建てて、そこを学校にしましてね。何も教材がないから、焼けた瓦をもってきて、それに釘で絵 を書いて、それが加工の時間とかね。ノートも何もないですから、それで算数をやるとか。瓦は豊富にありましたからね。そのような教育を受けたのを記憶していますよ。
Q:まあ、そういう震災の後遺症みたいなものはずいぶん続きますか?昭和5年の復興祭くらいまで続くんでしょうかね。
A:そうですね。二葉小学校というのは、今度は本所の大空襲で一番被害が多かったんじゃないですか。2回も3回も被害が多いんですよ。わたしがちょうどビルマから戻ってきて、両国駅には昭和21年の5月に戻ってきたんですけど、駅長さんが「兵隊さん、夜は家に帰ると危ないから、そこの銚子行きの列車があるからそこでお休み下さい」と言うんですよね。なぜかと聞くと「いくら兵隊さんでも、寄っ てたかってむしりとられるから危険だから、夜は歩いちゃいけない」と言うんですよ。で、ホームへ立ってみたら焼け野原なんですよね。それが、本所の震災のときの焼け野原とまったくうり二つなんですよ。
Q:うり二つですか?震災のあとに帰ってきて、子供さんが3分の1くらいになっちゃった話ですけど、そうすると住民も3分の1も減っちゃったんですか?
A:全滅なんていう家がゴロゴロありました。ちょうど、わたしの家の割下水に出る左側に二葉湯というお風呂屋があったんですが、そのお湯屋が全滅です。そういう家庭が方々です。さもなければ、父親や母親を亡くしたとか兄弟を亡くしたとか、そういう家庭が圧倒的に多かったんじゃないですかね。
Q:9歳では難しい質問かもしれませんけど、震災前と震災後とこんなところが変わったとかいうのがありますか?一番変わったのは、どういうところですかね。それこそ二葉の周辺の話でもいいんですけど。
A:上野公園ですね。東京からみんなあそこに避難しまして、あそこで商売をはじめた方が大勢いらしたんですよ。すいとん屋とかしるこ屋とか、全部食べ物屋に関係したことですね。で、本所あたりからてくてく歩いて食べに行ったものですよ。ですから、期せずして思わぬところに食堂街ができるんじゃないかと思って。いまだにアメ横、アメ横っていっているのが、そのイメージからきてるんじゃないかなと思いますけど。
Q:その頃は全然そういうのはなかったんですか?
A:なかったですね。それと石の家っていうんですか、いわゆる鉄筋コンクリートっていうのはいかに地震には強いかっていうことですね。ところが鉄骨が入ってないものはダメですな。浅草の12階みたいに頭から崩れるということで、12階が崩れたのを見に行きましたけど、頭のほうから崩れましてね。 意外に、鉄筋の家でも3階建てが当時の高層でしたけど、あれが丈夫だったですね、かは燃えてます けど。ただ、崩れたのは見たことがなかったです。だから、今度建てるときはコンクリートの家がいいんじゃないかと思ってますけど。
Q:浅草観音が燃えなかったですよね。
A:あれは、火の方向、風向きが変わったという話をチラッと聞いてますけどね。両国のこのへんも燃えなかったんじゃないですか。震災のときも何軒か一部残ったんですよ。風向きが急に変わったんですね。それから、大空襲でも残ったんでしょう。何か因縁でもあるんじゃないですかね。あの吉良上野介の屋 敷が残ったんですよね。
Q:浅草の場合は観音さまのご利益があったっていうんで、信仰する人が増えたなんて話を聞くけど。そういえば、そういう場所があるんですね。いくつか震災も戦災もまぬがれたというところが。
A:でも、浅草の場合は吉原はすごかったっていうんじゃないですか、犠牲者が多くて。そして、この門前仲町の洲崎というところも花柳界がありまして、あそこも被害が出たんじゃないですか?
Q:子供さんじゃあ、焼け跡を見に行くっていうことはなかったですか。
A:自分の近所くらいしか見てないですね。あんまり遠くのほうまではちょっと。
Q:やっぱり、被服廠以外に死体がゴロゴロしているのをあんまり見てないですか。
A:隅田川は年中流れてましたね、いやな感じがしましたけど。でも、避難した後ですから、空き家が燃えているんですから、被害者というものはあまりないんですよね。一箇所にまとまって亡くなっている という。
Q:そうですね。被服廠もこの先の吉原も弁天池もそうですね。
A:ただ2〜3日したら歩兵三連隊というんですか、麻布の連中とか近衛の連中が玄米の炊出しにきたんですよ、このへんの救援に。あれは食べられたものじゃないですね。玄米のおにぎりというのはポロポロしてますし、まして消化は悪いし。健康にはいいんでしょうが、おいしいとは思わなかったですね。
Q:お腹がすいてても、うまいとは思わない。
A:ええ、あれだけは見向きもしなかったですね。
Q:そういう炊出しは、兵隊さんだけだったんですか?ほかに住民はしないんですか?
A:兵隊さんだけでしたね。それと、朝鮮人のうわさが恐かったですね。小松川のほうですか、だいぶ激しくあったとか、チラッとうわさに聞きましたけどね。
Q:はい。攻めてくるっていううわさがあって、隠れたという人もいましたけど。押し入れに隠れちゃったとかね。これはまったくのデマですけどね。ところで、戦争をきっかけに服装が変わったとか、人の気持ちが変わったとか、そういうところはないですか?
A:もう当時、わりかた着物の生活というより洋服に変わってきましたね。むしろ、動きやすいということでね。ですから、着物はそのへんから衰退しはじめた。震災が一つの要因じゃないかと思いますね。活動しずらいですよ、見てはきれいですけどね。
Q:石上さんが震災を経験した日も洋服でしたか?
A:わたしは着物でした。
Q:着物でしたか、お母さんもおばあさんも?
A:全部着物でした。
Q:やっぱりその頃は着物なんですね。
A:震災前はね。小学校ではかまをはいてますから。それで、ここに手ぬぐいをさげてますから。そういうかっこうですから、もうこれがノーマルなスタイルだつたんでしょうね。
Q:震災後にクラスが1つになって、男女クラスになつたときも大部分まだ着物でしたか?
A:まだ、その当時は物が不足してましたから、あるものしか手に入りませんしね。落ち着いてきたのが10年後くらいじゃないですか。震災のときは「復興、復興」ということばが妙に流行りましてね。復興、復興ということで徐々に服装も変わってきたという感じで、そのうちものも豊富になってきて、そういう波に乗ってあらたまって洋服に変わっていったという。
Q:焼け跡が完全になくなったなあと思ったのは、震災からどれくらいたってからですか?
A:復興は、わたしがあのとき感じたのは5年という話が出てたんですけど、5〜10年くらいのちょうどあいだくらいじゃないですか、完璧に変わったというのは。人間の復興の力というものはたいしたもんですね。
Q:昭和5年に復興祭というのがありますね。あれはかなり大きな祭りだったんですか?
A:そうですね。隅田川をみますと、いま防波堤がたくさんありますね。昔はなかったんですよ。このへんで水泳ができたんです。わたしも記憶してます、このへんで水泳したのをね。このへんに着物をおくと、着物がなくなっちゃうんですよ。おまわりさんがきて持っていっちゃうんです。あとで、おまわりさんのところに行って、小言を受けてもらったのを記憶してます。
Q:魚もかなり釣れるんですか?
A:ええ。ハゼなんて無数に釣れました。この引っ込みのところに堀割があったんですよ。両壁のところに荷物の積みおろしの堀割がずっとあって、それがなくなっちゃったですね。ちょうど、安田別邸の宿所寄りのほうの向こう側に大きな氷倉がありましてね。
Q:そんな火事があっても、氷が大丈夫でしたか。
A:大丈夫でした。おがくずの下に隠れてましたからね。
Q:そのときの氷はおいしいだろうなあ。
A:いやもう貴重品だったですね。もう飲料水のかわりに、みなさんが着物に包んで持って帰るんだけども、どこで探してきたと聞かれて教えるととられちゃう感じがありましたから、意地悪して教えなかったですけど。そんな茶番劇がありますな。
Q:被服廠というのは子どもの遊び場だったんですか。
A:たいがい遊び場だったですね。その後で、錦糸町に錦糸公園というのができまして、それも予備に作ったんじゃあないですか、当時の大人たちの考えで。
Q:その地震の夜、お父さんはどこにいらしたんですか。
A:隅田川を何回も何回も往復したらしいです、泳いで。燃えている最中には。
Q:やっぱり熱さから逃げてですか。
A:逃げてですね。蔵前から飛び込んで、隅田川を往復したそうです。そうすると、泳げない人はつかまるそうです。そうすると潜るんです。で、苦しいからその手を離すから、その瞬間に逃げるんです。人を助けることよりも、自分が助かるのが精いっぱいだった。
Q:なるほどね。
A:その次に焼けた舟が流れてきて、それにつかまって休息したりしたと、そんな話をしてましたよ。
Q:そういう厳しい経験をして、一家全部助かったというのは珍しいほうですね。
A:奇跡ですね、本当に。わたし一人っ子ですからね。今後の戦争だって、兄弟3人とも戦死したのがいるかと思うと、わたしみたいに一人っ子が生きてられたりして、これはわからないですな、運ですよ。運以外の何ものでもないですよ。
Q:震災で助かった人が会を作って。
A:ああ、そうですか。震災後の10年くらいは、9月1日というとものすごく盛んだったんです、慰霊を兼ねて。でも、最近は火が消えたようですね、いわゆる風化しちゃったというか。安田別邸で同級生 と二葉小学校のクラス会を開いて15人くらい集まって、そのときに行ってみたんですけど、昔の面影はないし。震災記念堂へ行ってみたところで、お線香もまばらだという感じで「人間も60年過ぎるとダメだね」なんてことを、お互いに共通の感覚で話しましたけど。
Q:二葉の同級生というと、震災の経験者ですよね。
A:全部そうです。いまでも同級生会で必ず震災の話題がでますよ。で、15人くらいは集まりますよ。年に1回は必ずやっているんです。
Q:そのなかで、被服廠に逃げたのは石上さんひとりですか。
A:わたしと、もうひとり女性で市川さんという方がいますけどね。この方も同じように、水溜りに飛び込んで助かった。
Q:ああ、やっぱり。
A:この人は、お姉さんが竜巻で飛ばされて亡くなった、とチラッときいてますけど。ご姉妹を2人くらい亡くしているんじゃないですか。
Q:市川さんとおっしゃいましたか。震災の前後ですけど、自動車は震災の前から走っているんですか。
A:自動車はあまり見たことないですね。震災の後でしょうね、車が流行りはじめたのは。当時は荷車とか馬車とか。自動車なんかは、あの当時貴重品の貴重品で見たこともないという感じで。
Q:震災の頃の子どもの遊びはどうでしたか。いまとほとんど同じですか。
A:あの当時の遊びというと、本所のほうは雨が降ると水が出るので、たらいで舟をこぐとか、あとはめんこ、ベーゴマ、そんなところじゃないですか。尾上松ちゃんが盛んな時代ですから、剣劇ごっことい うのが盛んでね。
Q:ちゃんばらね。震災を境にして遊びが変わるということはないですか。震災をきっかけとして、サラリーマンがふえたとか、住宅街が多くなったとか、大阪弁がかなり東京にはいってきたとか、いろいろ 変化があると思うんですが。
A:震災を経験した方はとくに、もう東京が恐いという感じがあの時分から植え付けられましたね。おそらく地方へ行きたいという人が圧倒的ですけど。後になって聞いてみますと、ああ離れるんじゃあなかったと、向こうへ行ったら不自由でしょうがないと。やはりデパートの下に住んでいるのが一番便利だと。こういうのが共通点みたいで、東京の人間というのは、東京を離れられないみたいですね。
Q:石上さんのご両親はもともと東京の出身なんですか。
A:いいえ、父は静岡です。母は江戸っ子で、深川生まれなんです。ちょうど森下あたりの生まれらしいですよ。父の郷里は藤枝ですけど、このあいだも家内をつれて藤枝に行ったんですが、どうも子供の頃 に父親につれて行ってもらったときと全然イメージが変わっちゃってね。
Q:どうも長いあいだありがとうございました。またお話しを聞かせていただきたいと思います。